「憎い!」は悪い感情なのか?

 「憎い」カテゴリーの感情は各種あるが、その発端に自分というものがないものから、あるものへと私なりに濃淡を並べると、こうなる。

  1. 無関係なことへの怪しからん⇒
  2. 当事者としての怪しからん⇒
  3. 嫌い⇒
  4. 憎い⇒
  5. 恨めしい

 最初の二つは、義憤(公憤)といわれているものだ。ニュース報道をみていて、悪事を働いた垢の他人にたいして、正義と公正の視点から憤慨することや、学校でいじめをみて、自分は当事者ではないが、なんとかしてやりたいと思うこと、などが1. だ。

 つぎの2. は当事者として理不尽な経験をすることで、相手にたいして憤慨する感情だ。自分が当事者であるとともに、相手に非があることから、場合によっては強い怒りを発する。しかし、自分の個人的な経験というだけではなく、再発防止と他の犠牲者が出ないようにという利他の気持ちも大いに入っているのが、この2. の特徴だ。

 2.は、4.ないし5.は似ているのでよく誤解される。特異な信仰を持つ親から受けた虐待や金銭的収奪にたいして広く告発をする人などについて、「当事者なのだから、単に5. だろう」などという人がいるが、それは違う。2.の告発のもともとの動機は、義憤と利他なのだ。

 3. は人にたいして持つ嫌悪感といったもので、苦手、馬が合わない、避けたい、嫌い、などの感情だ。不思議なもので、初対面でなんの経緯も利害関係もないのに、こうした気持ちになる人がいるものだ。他の人との過去の経験がトラウマ・記憶になっているのか、本能的に自分と合わないタイプとわかるのか、理由はいろいろあるだろう。前世(過去世)があると説く宗教では、前世でトラブっていた相手だから、その因縁で出会ってしまうとともに、たしかに何かが起きる前ぶれなんだ、という説明も目にする。

 4. は具体的な出来事によって、特定の相手に発する感情のことをここでは指している。いうまでもなく、誰もが持つ感情だ。

 5. は4. が反復して心の中で生起するもので、憎いの進化型といった意味でここでは使っている。

 こうした「憎い」とくに4.の感情に対処するための一つのコツは、修練・修得つまり身につける、ということだと思う。車の運転中に、突然他の車を追いかけまわして煽り運転をするような人がいる。そういう人の心境をあとでよく聞いてみると、「無理な横割りをされて怪しからんと思い、頭にきた。思い知らせて、正してやろうと思った」などと言っている。だが、横割りをしたという相手に事情を尋ねてみると、前を自転車がフラフラと走っていて危険だと思ったから、少し車間距離は少なかったが、車線変更をさせてもらった」といった程度の理由にすぎなかったりする。

 横割れをされても「急いでいらっしゃるのかな」「こちらで気づかない事情があるのかも」「自分もたまにやっちゃうことあるよな。お互いさま」「運転が未熟みたいね」などと受け取る習慣を身に着けると、だんだんと腹がたたなくなるものだ。

 5.の対処法の一つは、「時が解決する」というものだ。夏目漱石の『草枕』(新潮文庫)に次の一節がある。「憐(あわ)れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である」(128-129頁)。この「あわれ」は「もののあわれ」。少し古い表現だが、しみじみとしたセピア色の情感だと私は理解している。

 キザな言い方をすると、愛憎が脱色してしみじみとしたセピア色の思い出になったとき、人は神に近づく。『草枕』のクライマックスは、このテーマを完結している。人間ドラマてんこ盛りの文学と違い、『草枕』のいう「非人情」のなんと深淵なことだろう。欧米の小説家には決して書けなかった、まさに東洋的な、千年に一度の名著と思っている。

 とはいえ、そうした受け止め方をしないとダメだ、などと偉そうに主張するつもりは毛頭ない。そう簡単なことではないのは、当たり前だ。