宗教と金(1)

 このブログの主旨は、「宗教ないしスピリチュアル活動による魂の救済と世界平和は、金品と無関係であり、両者を関連づける宗教団体によるすべての行為に反対」というものである。

 ※以下「魂の救済」で意味しているのは、救われていない先祖の霊の救済(成仏)、ご利益(ごりやく)を受けること、霊障(とくに霊的な原因での病気)を除くことなどである。

 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)で、信者の財産を教団に献上させようとした以下の動画は、1998年1月のものである。多くの人が戦慄したことであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=GICoPbs8NTg

同教団では、こうした行き過ぎた「資金的収奪」(櫻井義秀、2023年、『統一教会中公新書kindle版、135頁の用語)が繰り返されてきたのであり、他の宗教団体とは別格の問題がある。そのことは、後で触れたい。

 神社でお賽銭を入れて願い事をする行為を参拝者はどう理解しているのだろうか。ほとんどの人が、とくに何も考えずに習慣化しているか、または、「仏壇や神棚にお供え物することと同じで、何が悪いの?」という認識だろう。もちろん、何も悪くない。強制されているのではなく、自分の意志でやっていることだ。金額も自由だ。では、100円を投げ入れるのと、1000円を投げ入れるのでは、後者の方こそご利益(りやく)が大きいと思うのだろうか? ならば、金持ちが100万円を賽銭箱に入れたら、その人に多めに幸せが行くのだろうか?

 神仏の存在を信じない人であれば、そもそもそんなことは否定するだろうし、神仏の存在を信じる人でも、それはありえないと、通常は思うだろう。金持ちほど、神仏に良しとされて、ご利益を多くいただくなどというのは、ありえないことだ。もちろん神道やほとんどの神社がそんなことを主張しているわけではないだろう。しかし、参拝する人の中には、無意識のうちにそう前提してお賽銭を入れる人は、たしかにいるはずだ。   

 だから、個人的な意見としては、神社の賽銭箱は、拝殿の正面に置くのではなく、神社の入口または出口、または、参道の途中などに置くのが良い。そして、「神社の維持運営のために、ご寄付をお願いします」という看板でもつけておけばいい。または、神社の入口で入場料を取り、賽銭箱は廃止する―つまり、賽銭とご利益・魂の救済は無関係であることを明言するということだ。

 同様の問題は、仏教の戒名でもみられる。もちろん寺や宗派によって違うので、戒名の値段とシステムは千差万別だろう。戒名が有料であること自体が、悪いと思わない。戒名をつけるために、僧侶が時間と労力を注ぐのだから、その人件費相当は請求されてしかるべきだ。故人の生前を彷彿とさせるという意味で良い戒名をつけてもらい、ありがたいと思うことは、自然なことだ。だが、戒名にグレードがあることには反対だ。聞くところによると、幼児が死亡したケースで数万円、一般には二、三十万円、そして高額なものでは百万円を超えるものがあるという。「高額な戒名ほどありがたい」という発想をしている人がいるとしたら、そんな考えはやめたほうがいいと忠告したい。金持ちほど、より極楽浄土に行けるなどありえないことだ。

 神仏や霊魂が存在するとしても、神仏・霊魂が人間の金品を欲しがり、ありがたがるなど、ありえないと思う。だが、仏壇や神棚にお供え物をしたり、花を飾ったりする行為を悪いとか間違っているなどと否定するつもりはない。それらは、神仏・霊魂・先祖を尊ぶ素直な気持ちの発露であると思う。

 家族の逝去の後に、人からご霊前・ご仏前などをもらったら、祭壇・仏壇にそれを置く。その行為は、お金を神仏や先祖・家族の霊魂に献じているのではなく、「この人から弔意をいただきましたよ」と報告しているのであって、ここで述べていることとは別だと思う。

 以上のように、宗教ないしスピリチュアル活動による魂の救済と世界平和は、金品と無関係であり、両者を関連づける宗教団体によるすべての行為に反対である。だからといって、神社が参拝者から賽銭をもらうことや、僧侶が戒名をつけることが有料であっても、一概に悪いとはいわない。ただ、それらは魂の救済や世界平和と無関係な、宗教というサービス業へのフェア(正当)な報酬の範囲であるべきだ。僧侶は労働の分類としては高度専門職だろう。大学教授の非常勤講師(他の大学に教えに行く、パート的な労働)の報酬は、90~100分の授業一回で1万円ぐらいだ(医者などの非常勤授業では、その30~50%増し)。これと比較すると、僧侶が戒名をつける時間が平均すると3時間としても、2万円程度が妥当なのではないか―私見です。

 最後に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の資金集めについては、冒頭に述べたように、特異な事績が認められる。同教団の信者たちは、「他の宗教、たとえば通常のキリスト教でも献金でかなりのお金を集めているではないか」とか「先祖解怨で信者からお金を収奪しているというが、仏教の葬儀や法事や戒名も高額ではないか」と反論する。

 しかし、櫻井義秀(2023)『統一教会』(中公新書kindle版)がいうように、「献金所要額は、寺院の檀家としての護持会費年間約一万円や、キリスト教会信徒の年間献金額と比べても桁が違う」(133頁)のである。たとえ、仏式の葬儀や法事の金額がそれなりに高額なケースがあっとしても、それは家庭連合の資金集めを正当化する論拠にはならない。他の既成宗教で高額なケースがあるのならば、それも大いに是正されるべきなのだ。

 また、キリスト教をはじめとして他の宗教で、過去の歴史で高額な献金・財産献上があったとしても、その金額だけで是非を論じることはできない。たとえば、現代の社会保障(年金、医療保険生活保護、失業保険など)に相当するシステムが未発達な古代においては、キリスト教団がその機能をある程度担っていた。たとえば原始キリスト教では、「教会に集まる会衆の中に貧窮なるものや孤独な寡婦老人が多く、・・・・・・これを・・・・・・憐れみ扶助・・・・・・することは、・・・・・・キリスト教徒の主要な任務」であった(石原謙、『キリスト教の源流(上)』岩波書店、53頁)。だから、高額献金をしても、それは他の誰かへの社会保障に使われているのだし、将来、自分が窮地に陥ったとしても、教団からの扶助で生きていける―このように共同体として支えあって生きてゆけるスキームが、「家族と同様に隣人を愛する」教義として、古代のキリスト教では展開されていたのだ。

 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)のこれまでの献金システムが、過去のこうしたキリスト教献金事例と合致しているとは到底思えない。献金や先祖解怨などで家庭連合に財産を捧げつくして、老後の生活に苦しんでいる事例をいくつも聞いている。

 さすがにやり過ぎは良くないと、いまは献金に上限を設けているそうだが、高額の先祖解怨を(元)幹部が奨励したり、韓国本部に100万円未満の現金を持参するよう要請したりと、その資金集めの磁力は、このブログ執筆時点で、なお強力な印象を受ける。

 どんな宗教団体でも、憲法二十五条でいう「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に反するような、極貧状態に信者を陥らせることは、違憲であろう。

 最後に、宗教団体はその会計決算・監査結果を世間と信者に公表すべきだと思う。信者から集めたお金が、その教義と運営方針に則して適切に支出されていることをちゃんと報告することは、宗教団体の暴走や詐欺的な行為を抑止する、一つのステップになるだろう。