福田ますみ氏の『Hanada』論説(2023年3・6月号)への書評・疑問―(4)母親からのお金の無心と給与の支払い日―

 福田ますみ論説の6月号では、小川さゆり氏が母親にアルバイト代を取られたとする件について、さゆり氏の主張を「嘘である」(6月号、300頁・中段)と断定している。この件についての福田氏の論旨とその根拠は、非常にわかりづらく、さゆり氏の説明が嘘であると納得できる根拠は、私の読解した限りでは、どこにも見いだせなかった。

 福田氏は「アルバイト代が銀行振り込みになり通帳に記録が残ったことで、それ以降も母親に没収されていたという事実はなかったことが明らかになった」(300頁・上段)と説明しているが、“通帳の残高が減っているなら、母親が没収した。それがないのだから、母親による没収はなかった” と福田氏は言いたいのだろうか(福田氏の主旨が意味不明である)?

 (以下、2023年8月30日に追記:※母親からお金を取られることを阻止するために、さゆり氏が給与を銀行振り込みにしたのだから、それ以降に取られることが激減したとすれば、当たり前のことである。そして、法律によって給与は従業員に直接支払わなければならないことになっているので、銀行振り込みになる前は、母親は、さゆり氏のバイト先の施設の人からお金を受け取ったのではなく、さゆりさんから受け取っていたはずである。いずれにしても、銀行振り込みになる前は現金での給与渡しだったのだから、「母親がさゆり氏からお金を無心していたというのは嘘である」との福田氏の主張が、銀行口座の残高の推移によって確認できるとは思えない。―以上、2023年8月30日に追記。)

 今と違い、キャッシュレスが普及していなかった時代に、さゆり氏が現金を定期的におろして財布に入れていたであろうことは、誰でも同意できることである。母親がさゆり氏から、現金で複数回にわたり、お金を無心していたとしても何の不思議もない。当事者しか究極ではわからないことにたいして、口座の残高などを巡って福田氏が予想しているのだとすれば、なぜ確定的なことを主張できるのか、疑問である。

 また、福田氏は次のように言う。「(さゆり氏が母親からの金の無心に対処するため)当時手渡しだったアルバイト代を、施設の代表にお願いして銀行振り込みに変えてもらったと主張していたが、これも嘘である。・・・・・・2015年5月に給与の支払いを銀行振り込みにしたのは小川さんの都合ではなく、施設側の都合によるもので、全職員を対象に、それまでの手渡しから銀行振り込みに変えたという。また、給与の支払い日は定まっていなかったそうだ。・・・・・・給与の支払日も決まっていないのに、母親がわざわざ施設に取りに行くことはありえない」(300頁、上段と中段、下線は星本による―以下同様)と書いている。

 給与を現金渡しから銀行振り込みに切り替えた時期と、さゆり氏が母親からの金の無心に対処するためにそれを希望したことが、時期的に同一だったとしても、何も不自然ではない。それなのに、なぜ「これも嘘」などと福田氏は断定できるのだろうか?

 さらに、労働基準法により、給与の支払日は従業員にたいして、一定の期日を定め支払わなければならないことになっている。

 『労働基準法』第二十四条②、「賃金は、毎月一回以上、一定の期日を定めて支払わなければならない」。つまり、給与の支払日がある程度は変動していたとしても、支払日はその都度決まっていたはずだし、それは従業員にたいして事前に通知されるべきものとされている。たとえば、JINJERのWebサイトからの以下の引用をご覧いただきたい。

「賃金はあらかじめ指定された一定の期日で支払われなければなりません。『月末締めの翌月25日払い』のように、毎月決まった期日を設定する必要があります。『毎月第3金曜日』のような毎月の日付が一定にならない期日設定は違法です。また、『毎月20日から25日』のように支払期日に幅を持たせることも禁止されています。一定期日払の原則は、毎月一回以上の原則と同様に労働者の生活を安定させるための取り決めです。支払日が毎月変動すると計画的な生活を送ることが困難になります」。

https://hcm-jinjer.com/blog/jinji/labor-standards-act_article-24/

 

 さゆり氏が働いていたその施設にもう一度質問に行って、“労働基準法に反して支払日も決まっていなかったのですか” などと質問したら、まちがいなく否定されるでしょうね。

 つまり、そこで働いていたさゆり氏にたいしては、給与の支払日が知らされていたはずだし、仮に支払日がある程度不定期であっても過去の経緯などから、母親にとっては予測がつく程度の情報が入っていた可能性がある。ただし、その勤務先が、労働基準法に違反していて、そんなこともちゃんとできていない、あこぎなビジネスをしていたとすれば別だ。しかし、そんな例外的な事例だとは想定しづらい。

 親とのお金のやりとりの詳細について、当事者であっても記憶がやや曖昧になってしまうことは自然なことである。また、さゆり氏の説明に「全て」「毎回」(お金を取られた)など、限定的な表現があり、それにたいして “例外があるじゃないか! さゆり氏の説明は嘘だ!”などと批判しているのであれば、部分否定を全否定に飛躍させているのであって、さゆり氏の主張の大枠を否定する根拠にはならない。

 また、福田氏は、さゆり氏の話の変遷について、「こんな話はこれまで全く出てきていない」(6月号、299頁・下段)と述べ、さゆり氏が話をすり替えたり、話がコロコロ変わったりすると匂わせている。しかし、新しい証言が後から出てきたことが、直ちに批判の論拠になるとは思えない。単に、「新たな証言が出てきた」というべきである。

 枝葉末節にとらわれずに考えれば、親からさゆり氏がお金を取られた件については、大枠としての重要部分が大切である。ここでいう重要部分とは、以下である。

  1. さゆり氏の高校在学中から卒業後数年の間に、親は十分の一献金、先祖解怨、その他教団への支出をまったくしていなかったのか。
  1. その期間に、親はさゆり氏にお金を無心して貰った(借りた)事実が、あったのか、なかったのか。

 実際、母親の説明として、さゆり氏から16万円を借りて返せなかったことはある、と説明されている(6月号、298頁・上段)。金額の多少にかかわらず、また親子の間ではあっても、人からお金を借りたら、宗教団体への支出などは減らして、まずは返済すべきだあると思う。優先順位の問題である。

 結局、母親からさゆり氏がお金を取られたことについて、東京地裁は「さゆりの高校時代、家庭に経済的余裕がないなかで債権者に献金を行っていることが認められるから、上記摘示事実は、その重要部分において真実に反するとはいえない」と判断している(6月号、303頁・中段)。昔のことなので当事者の間で、記憶違いや受け止め方の違いがある可能性は否定できない。しかし、「重要部分において」つまり大枠では、母親からお金を取られたことについて、さゆり氏が虚偽を語っているとの根拠は認められないと、裁判所は判断したのである。私はこの判断は正当であると思う。

 繰り返しになるが、福田論説を読んでも、さゆり氏の説明が嘘であると納得できる根拠は、私の理解した限りでは、どこにも見いだせなかった。私の読解力の問題なのか、福田氏の説明がわかりづらいのか、それとも論説の内容自体が論拠不成立なのか、人それぞれの立場で、感想は分かれるでしょう。