旧統一教会への解散命令の必要性

 東京地方裁判所の皆さまへ―織り込みずみかと存じますが、市井の声としてポストします。解散命令請求の際に論点となった三要件のうち、「継続性」についてです。以下、諸説を引用・検討した結果、「継続性がある」と判断するに至った理由を述べます。

 

 以下の主張内容は、あくまで筆者個人による批評・論評です。法律の素人である筆者が以下のような主張を裁判所宛てに書くのは、僭越かつお恥ずかしい限りですが、市井の声の一つとして届けば幸いと思い、入力・公開いたしました。

 

 また、筆者は教団内部の者ではないので、内部的な一次情報を持つ教団ないし信者からの反論・異論は今後ありえます。その場合には、若干の加筆・修正がありえる点を申し添えておきます。

 

 なお、世界平和統一家庭連合は、「開催命令請求に至る考えそのものが、民事案件にもとづくものであるから、請求そのものが無効である」または「現在の事態は宗教弾圧である」との抗弁を展開するかもしれません。しかし、これらは、裁判所から一蹴されると予想していますので、以下では触れません。

 

SNSでの発信内容は、本人が必ずしも確認できないという意味で、引用するには信頼性に欠ける面があります。しかし、直近の動向を示すというメリットに鑑みて、以下ではあえて紹介させていただきました。

 

①組織的で悪質な行為の元である「意識」は継続している 

 解散命令請求にたいして、同教団(以下、教団ないし統一教会と称する。)および信者は「2009年のコンプライアンス宣言以降、訴訟は激減している」「改革を重ねてきたので、現在の組織には悪質性はない」と主張しています。つまり、「継続性はない」とのアピールですが、筆者が詳しくみるところ内実は真逆であり、問題は継続していると思います。

 

 まず、継続性とは、たんに訴訟件数が減っているかどうかで測られるべきではないと思います。献金等の返還要求の訴訟を減らそうと思えば、教団が個別の返金交渉に潤沢に応じれば外見上は達成できます。しかし、「社会的相当な範囲」を逸脱してでも、多額の献金をすることを良しとする「意識」、それを集めようとする「意識」が変わっていなければ、量的には減っても質的には同等な事案・事件が起きます。それは今後も起こりうるということを意味しています。

 

 たとえば、2018年に富山で起きた、委任状を偽造して女性信者の息子の貯金をおろして献金させた事件は、婦人部長という役職の立場にある者が、もう一名の信者と共謀して、教団の行事が行われていた施設内で働きかけて、行ったものです。

旧統一教会主張と被害証言に大きな落差 息子の貯金を“偽造の委任状”で下ろして献金 元信者「この教団は組織でしか動けない」【報道特集】 | TBS NEWS DIG (3ページ)

 

 通常の組織であれば、こうした事案に対応して、犯人たちは組織内で懲戒処分を受けたうえで、組織の構成員にその顛末が周知されます。そうした周知の目的は、再発防止のために、構成員のコンプライアンス意識を訓育することです。富山の当該事件の後に、こうした対応を教団が十二分に採ったという情報は今のところ確認できません(教団内部のことなので、絶対とは言い切れませんが)。もしこうした訓育が行われていなかったとすれば、2009年のコンプライアンス宣言は、信者の「意識」改革という真の改革を伴うものではなかったと思われます。

 一部の現役信者は、「自分の周りでは高額の献金被害などない」「そんな要求をされたことはない、聞いたこともない」などと言いますが、実態は下記のサイトなどにあるとおりです。

《解散命令を請求》統一教会はコンプライアンス宣言後も年間600億円の献金集め〈内部資料入手〉 | 文春オンライン

 

 結局、教団のコンプライアンス宣言とは、「大きな問題が起きたり返金訴訟になったりすると教団にとってかえって損失だから、そうならないようにブレーキをかけよう。しかし、献金尊いし多いほどいいので、それなりに集めたい」というスタンスから出たものと思われ、献金にたいする意識の根本は質的には変わっていなかった、と思います。

 

②札幌地裁2012年3月判決の「情緒」の重要性

 郷路征記(2022)『統一協会の何が問題か―人を隷属させる伝道手法の実態―』花伝社、90-91頁にあるように、入信の経緯における教団の手法とりわけ正体隠しの伝道は、違法との判決が、おおむね定着していると理解しています。

 

 この2012年3月・札幌地裁の判決文「信仰による隷属は、あくまで自由な意思決定を経たものでなければならない。信仰を得るかどうかは情緒的な決定であるから、ここでいう自由とは、健全な情緒形成が可能な状態でされる自由な意思決定である」(郷路、2022、90頁)を郷路氏は引用して、「論理ではなく情緒なんだ」「憲法の理念を基に評価、判断している判決」(同、91頁)と解説しています。

 

 こうした違法な入信によって培われた精神的な土壌のうえに、その後の「霊感商法」や献金等の信者の活動路程が形成されているといえます。

 

 事業法人は、収益動機を理念とします。地方自治体の理念は「住民の福祉の増進を図る」(地方自治法、第一条の二)ことです。宗教法人ではこうした他の法人と異なり、教義・摂理などに基づく理念・情緒・意識が、その運営に強く反映されます。宗教法人法第二条で「『宗教団体』とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする」とあるように、教義と教化育成が、その根本にあるという点で、他の法人と異なっています。

 

 そうした宗教法人である統一教会が、新たな信者の勧誘における伝道、および、入信後の教化育成において、正しい理念・情緒・意識をプログラム化してこなかった点は、宗教法人としての資格そのものを欠いているといえます。

 

③被害案件が解決されていないことも、継続性を意味する

 旧株式会社ジャニーズ事務所が、被害をうったえる人たちにたいして、まず「謝罪」したうえで、被害者救済委員会を設置して、補償を進めていることに較べれば、統一教会の対応はとても不誠実だと感じます。まず、教団の記者会見では、「申し訳ない」とは言っても被害者への「謝罪」との文言は使わないという方針で徹底してきました。過去に違法(不法)判決がでた案件については、たしかに「被害者」という認識を示すものの、判決がでる前の段階であれば「被害を受けたといっている人たち」などの表現を使っています。

 

 被害をうったえる人たちへの教団のこれまでの対応については、個別に返金交渉で対応し、少額の提案で遅々として進まない、と批判されてきました。水俣病訴訟で、チッソが最初は加害事実を認めずに、個別の「見舞金」交渉で対処していたことに酷似していると感じるのは筆者だけでしょうか。

 

 つまり、過去の「社会的相当な範囲を逸脱」した献金等の結果、日々の生活に困窮している人たちの真の救済は不完全であり、そうした意味でも問題は継続しています。日本国憲法第二十五条でいう「健康で文化的な最低限度の生活」を営めなくなった原因として、教団による資金収奪があったうえで、救済も補償・返金も十分にされていない被害者がいる以上、解散命令を含めて、包括的財産保全などの措置が講じられることは、必要かつ当然のことと思います。

 

献金を正当化する信者の意識が、いまも「継続」している事例

 教団の現役信者がSNS等で発信する意見として、非常に多いのが「献金はそのときに本人の意志でしたものであるのに、なぜ返金の必要があるのか」です。こうした発想は、教団の献金問題を一般論にすりかえて正当化しようとするものです。現役信者は、たとえば、仏教の檀家が寺に月々の会費を支払うといった事例などを念頭においているようです。そして、財産の処分権にもとづいて本人がそのときに決定したのであって、嫌なら断ることもできたはずだから、それを後から返してくれというのはおかしい―こういう意見です。

 

 他には、「同じように献金をしたのに、脱会した人は返金を要求して、いまも信者である人は要求しないなんて、理屈が合わない」「献金尊い。為(ため)に生きる利他の行いだ」「神に捧げたものを返せなど自分は思わない」「献金は天国創建のために捧げたものであり、その使途がどうとか後から心配などしない」「献金は天国に貯金するものだ」などがあります。

 

 このように信者の意識が変わっていないゆえに、2009年のコンプライアンス宣言以降でも、高額献金を教団が受け取った事例が、下のURLのとおり報道されています。1億円以上の被害である、とのことです(報道番組の内容です)。

https://twitter.com/i/status/1713772781744115995

 

 以下は、現役信者(自称)のSNSでの発信内容の引用です。個人の特定を避けるため、本文のみとさせていただきます。「信仰とは自己の事情よりも神の事情を優先する事。統一教会厳しく自己犠牲を求めるのは、これが理由。だが、厳しい自己犠牲が必要になるのは、今が霊的戦争の時代だから」「地上天国の礎が完成すれば厳しい犠牲は無用となる」。

 

 そして、トランプ・元米大統領のメッセージに数億円を支出したということについては、「統一原理には『条件』という教義があり、その行為を神とサタンがどう評価するかによって天国創建が近付くか遠のくかが決まるという思想がある。天国とは神が完全に保護権を主張できる国家。逆にサタンが完全に支配権を認められた国家が地獄となる。今は全ての国家が神もサタンも影響力を主張できる中間位置にある。どちらに近いかの差はあるが、完全にどちらという事ではない。大統領が謝礼目当てであってもメシアを支持したという事は、それは神の影響力行使の根拠となるし、サタンも納得せざるをえない。報酬目当てだから完全ではないにしても、無意味ではない」と、元大統領への支出を正当化しています。

 

 こうした献金ゆえに、多くの日本の信者とその家族が、生活を破壊されていることについて、「自己犠牲」であるとは確かにいうものの、いまは我慢すべきだ、との認識であることが窺われます。他にも「信仰してる時は感謝して捧げました→信仰辞めたので返金してください・・・・・・こういうのは被害と言い難いと私は思います」と信者はポストしています。

 

 結局、「憲法第二十五条に反する(またはそうなると合理的に予見できる)献金、社会的に相当な範囲を逸脱してる献金は、たとえそのとき献金する信者の意志であったとしても、教団は受け取ってはならなかった」という意識を教団の(少なくとも一部)信者は、いまも欠落しています。

 

 生活保護は、憲法第二十五条に立脚して、公金つまり税金を使って国民の生活を補助する制度と理解しています。教団による多額の献金集めが原因で、生活保護(すなわち税金の投入)を受ける(または受けた)信者・元信者がもし一定程度いるのであれば、教団が宗教法人として税の優遇を受けてきたことは、社会の公正の観点からも是正されるべきであり、大鉈を振るう時期がきたと思います。

 

 献金についての教団と信者の以上のような意識は、筆者のみるところ、次の三つの考えが信者の意識の中で混然(渾然)一体となっていることに由来します。その三つとは、1. 施しつまり喜捨という意味で、献金の行為そのものが尊いということと、2. 教団に献金したら、それは途上国への支援や科学・医療の発展など利他(為に生きる)ことに使われているはずだ、3. 教団の存在と諸活動そのものが天国創建を進めているのだから、献金尊いのだ、です。

 

 3.については、たとえば、信者は「教団はボランティア活動など良いこともしているし、悪質な資金収奪を若い自分は経験したことがなく、すでに行われていない」などとアピールします。しかし、少しばかり良い行いが同教団にたとえあったとしても、これまでの組織的で悪質な加害事実が帳消しになるはずがありません。

 

 2. については、教団とその関連団体の収支決算が信者にも世間にも十分に公表されてはおらず、信者が思い込んでいるイメージに過ぎません。つまり、エビデンスがありません。信者数に比して職業宗教家が多い同教団としては、献金が第三者のために純粋に支出されている比率は、他の教団よりも低いと予想されます。また、クラウド・ファンディングや善意の募金などと称しながら、実は教団ないしその信者による正体隠しの資金集めだ、との事例はすでに指摘されていますし、元信者の経験談としても語られています。たとえば、下のリンクのとおりです。

https://twitter.com/tsuboTSURUKO/status/1748256476035006626

 

 教団によるこうした詐欺的な募金行動は、世の中にマイナスの影響をもたらします。たとえば、人々はこうした事例を知って「災害地域への支援のためにクラウドファンディングしようかと思ったが、宗教団体による詐欺の資金集めの可能性はないだろうか、それとも、本当に正当な募金なのだろうか。その区別がわからないので、いまはチャリティーをやめておこう」と躊躇するからです。

 

 つまり、本当に善意からの募金が、被災者などの相手に届きにくくなるのです。手短にいえば、情報の非対称性による逆選択が起きるわけです。募金をしたい人は、その組織が正当かどうかの情報を持っていないがゆえに募金をしなくなり、「本当に援助が必要な人々にお金を届ける」というチャリティーが本来持っている機能とは、逆の結果が起こるのです。このように、たとえ過去の事例が原因であっても、現在もその影響が「継続」している可能性はあります。こうした詐欺的な募金は、文化庁の解散命令請求の内容に含まれていないだろうと予想しています。しかし、これもまた、統一教会による、公共の福祉を害する行為が継続している可能性を秘めていると思います。

 

 宗教法人法第八十一条では「裁判所は、宗教法人について左の各号の一に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる」とあります。政府が調べ上げた結果としての解散命令請求文書は、たしかにほぼ網羅されつくしていると思いますが、審問の過程やその後の経過で、新たに「公共の福祉を著しく害する行為」が明らかになることもありえます。上記の正体隠しかつ詐欺的なチャリティーはその典型です。同法第八十一条「職権で」に鑑み、解散命令請求の内容を職権にてさらに掘り下げ、そうした事例も取り入れてくだされば幸いです。

 

 1.については、喜捨の動機そのものが尊いという、当たり前のことを言っているだけです。信者が、教団からの指示もなく、教団を通さず、報告もせず、困っている人をみて施しをした、という事例がたとえあったとしても、教団への異常に多額の献金を正当化する論拠にはなりません。教団はむしろ、「サタン世界(≒教団以外の世間)の所有物は、天に復帰せよ(献金、貢納せよ)」との「万物復帰」の摂理によって、信者の財産を収奪してきたのです。

 

 結局、「献金尊い。為に生きることだ」との信者および教団幹部の発想は、献金の動機としての喜捨(上記1.)を盾にした根拠なき思い込みにすぎないと思います。

 

統一教会は、公益法人として、精神的安定を与え社会に貢献してきたのか

 

 宗教法人の存在理由は、まさに精神・情緒・意識の安定・至福を目指すことにあります。解散命令を請求した際の盛山文部科学大臣の説明に以下がありました。「宗教法人が公益法人である理由は、宗教活動によって不特定多数者に精神的安定感を与え、社会に貢献すると期待されていることにあります。ところが、旧統一教会の行為は、・・・・・・多くの方々を不安や困惑に陥れ、・・・・・・財産的・精神的犠牲を余儀なくさせて、その生活の平穏を害するものであった」。 

 

 財産的な被害だけではなく、精神的な被害も解散命令請求の理由としている点で、大いに賛同できるものです。それに対して現役信者は、上記の引用のように、いまも「厳しく自己犠牲を求める」などと主張していることからも、信者の意識改革が不十分であると改めて思われます。

 

 宗教法人が、その組織運営のために必要な経費を社会的に相当な範囲で信者から集めることは、一般的に許容されるものですが、そのことと、「献金は天に捧げるもの」「献金尊い」などと称して、常軌を逸した金額を集めることとでは、質的に異なります。教団は「献金は原則として収入の3割まで」とか「10万円を超える献金には領収書を渡すことにしている」などと改革した旨をアピールしていますが、その前に、そもそも教団と信者の意識・スタンスとして、「献金は天に捧げるもの」「献金尊い。利他の行い」との意識は十分に改革されていません。

 

 献金は、教団の運営のためのものであり、「天に捧げる」ものではありません。神仏が人の金品を欲しがるわけがないのに、信者は「どんな活動をするにも現代社会ではお金が必要で、信者の献金によってそれが可能になるという意味で、条件立てになるのであり、神はそれによって力を発揮できる」などと、「献金は天に捧げる」つまり「神は多額の献金・犠牲でも良しとされる」といった意識を変えようとしていないようです。

 

⑥公共の福祉についての意識が低い

 解散命令請求に際して、「公共の福祉を著しく害」してきたことが論拠となりました。同教団の信者の「公共の福祉」についての意識は、やはり一般の常識からは逸脱している側面があるように感じます。「公共の福祉」の公共は、もちろん国や役所(official)ではなく、publicです。

 

 教団の弁護士は、次のようにSNSで言いました。「信者が平穏な生活を楽しんでいる状態を示す。それは解散のときの信教の自由の侵害が大きいという認定につながる。そのために、公共施設を家庭連合名義でバンバン利用する。申請する。却下されたら争う」。

 

 市民センターなどの公共の施設は、ちゃんとした目的をもって利用申請されるべきです。上記は、「教団の正当性を示すため」という隠れた目的のために、「信者が平穏な生活を楽しんでいる状態を示す」という表向きにすぎない偽りの目的を使って、利用申請しようというものです。しかも、「バンバン」利用する、と。その結果、他の利用者が使えなくなることについて、顧慮していません。「公共の福祉」をなんと心得ているのだろうかと心底、首をかしげる内容です。

 

⑦結論:教団と信者の意識は変わっていない。真の改革は行われていない。 

 宗教法人にとっては、理念(教義・摂理)・情緒・意識は、教団運営に強く影響します。これまで教団と信者が引き起こしてきた、様々な害悪(法令に反して、公共の福祉を害した行為)の根本には、入信時の違法な勧誘・伝道をベースとする、特異な情緒や意識があります。その意識は、2009年のコンプライアンス宣言によって質的な転換を遂げたとはいえません。だからこそ、過去の被害実態にたいして教団が誠実なスタンスで対応しているとは言い難いのです。以上の理由から、これからも被害が生じる可能性を否定する論拠はないと判断できると思います。

 

⑧追記1:意識の改革ができない理由

 信者は献金等について、いまだに荒唐無稽な主張を繰り返しています。意識の改革ができない理由は、これまでの隷従と思考停止のプログラムにあるかもしれません。つまり、教団が入信のときに、特異な考えを刷り込むからです。以下、それについての引用を示します。ただし、そこで説明されている内容が、今日の教団信者にもストレートに当てはまるのかどうかは、即断はできないと思います。信者の考え・意識を教団がどのように教化育成しているのかについては、教団の意見も十分に聞く必要があることは、いうまでもありません。

 

 「まず、善悪の判断基準を変えます。・・・・・・たとえば親の財布から金を盗んで統一協会献金をするというような、私たちが常識的に悪として判断することも、神のためなので善なのです。・・・・・・盗まれた人も神様に献金したことになり、救われるというのです。したがって、それはしなければならないことになります。・・・・・・すべての反社会的な行為は神のため、メシアのためであり、統一協会にとっては善なので、やらなければなりません」(郷路征記、『統一協会の何が問題か』花伝社、2022年、37頁)。

 

 こうした意識の根は、経典である『原理講論』の「第二章 堕落論」にあります。教団の教義の中で「堕落論」は特異なものであり、「万物復帰」を含めて、教団の様々な考えのルーツとなっています。エバとルーシェル(ルシファー。堕天使)が「不倫なる霊的性関係を結ぶ」(『原理講論』第5版、2020年、109頁)に至り、その後、エバとアダムが「肉的に不倫なる性関係」(111頁)を結ぶに至り、「サタンの血統を継承した人類が、今日まで産み殖えてきたのである」(同頁)、と。つまり、現代世界の人々は、サタンの子女であり、その血統も、所有物も、考えも、神に背いた汚れたものであり、教団の世界こそが善である、と教えてきたのです。

 

 それゆえに、人々の金員を献上させたり、不動産の名義を教団に変えたりすることが、それらを浄める尊い行為とみなされてきたのです。教団の基本視角は、神vsサタン、原理(神の教え)vs共産主義(神を否定する唯物論)、教団世界vs(汚れた)一般世界、といった極論で首尾一貫しています。

 

 こうした理解のうえで、万物復帰(人々の所有物はサタン世界の汚れたものだから、教団・天に捧げることで浄められる)といった意識が続き、さらに、信者同士の夫婦から生まれた子は、祝福二世として生まれながらに原罪がなく、それ以外の信者の子である信仰二世とは異なって清らかな存在である、などという教団内の差別意識が「継続」されています。通常の宗教のような「出自・人種・先祖などに関係なく、人の心に神的な部分と悪魔的な部分があるので、組織的な役割分担は別として、平等の視点から互いを尊重し励ましあって向上を図ろう」という教団運営と、家庭連合の運営は大きく異なります。

 

 意識改革が教団でうまく行われていない可能性として、別の引用を紹介します。「統一協会員の確信は、日々の実践活動によって、より強められ深められていきます。『アベル』と言われる統一協会の上司に『報連相』(報告・連絡・相談)を強いられることで、統一協会に隷従するよう仕向けられ、逃れられないようにされていきます。統一原理に反する生き方をすれば『霊人体』は完成せず、地獄に行くことになるとか、統一協会に対して不信を持ってはならないとか、分からないことにも深い意味があると考えろといった、思考停止させることを教化されます。活動が進展するのにともない、世界を『神』対『サタン』の対立としてとらえるようになるため、協会員以外の人たちに対して排他的な姿勢や恐怖心を持つようになっていきます。これによっても、統一協会から逃れられなくされていきます(櫻井義秀『統一協会―性・カネ・恨から実像に迫る―』中公新書、2023年、No. 2746、Kindle版、80-81頁)」。

 

⑨追記2:教団によって「継続」されている特異な意識―「共産主義者の策動」論

 教団は、2022年夏以降の状況を「マスコミによる偏向報道」「共産主義者たちによる教団潰しの意図による」「元信者の個人的な恨みによる非難」などといい続けています。こうした意識の根は、『原理講論』です。すなわち、神に敵対するサタンが唯物史観すなわち無神論共産主義を生み出し、そうしたサタン軍団に操られた共産主義者を中心とした人々によって、同教団にたいして弾圧が起きている、との理解です。たとえば、2023年初頭に、教団会長が信者向けに発した言葉は、17世紀初頭の日本でのキリスト教にたいする迫害を引き合いに出して、現在の状況はまさに統一教会への迫害であるとして、「われわれがブレなければ、サタンは必ず敗退する」でした。

 

 同様の思い込みは、信者がSNSで発信した以下の引用からもわかります。「私は唯物論者は自然に共産主義を持つようになると考えています」「共産主義には根底に唯物論がある。だから人を人扱いしないでしょ?・・・・・・だから、私は唯物論者は共産主義だと言っています」「一宗教の否定は全ての宗教の否定へ直結する。宗教を潰した社会が共産国家である。宗教を潰した日本社会にしたいですか?」信者が街頭演説でこうした支離滅裂な主張をしている様子が下のリンクです。

https://twitter.com/i/status/1732503393434841098

 

 自分たち教団が(2009年のコンプライアンス宣言以降も)引き起こしてきた加害事実に向き合おうともせず、被害者への誠意ある補償交渉も不十分で、あげくのはてには自分たちは宗教弾圧の被害者であって、その背景にはサタンと共産主義とそれに踊らされているマスコミ・世論があるなどと言い募っているのです。

 

⑩追記3:教団によって「継続」されている特異な意識―「正体隠しの伝道は許される」

 2012年3月の札幌地裁判決など幾多の裁判で、「正体隠しの伝道」が違法とされました。さらに、「不当寄付勧誘防止法」(2023年1月5日施行)でも、「正体(法人名等)を隠した勧誘をしない」と決められたにもかかわらず、現役信者は正体隠しの伝道を良しとする発信を続けています。SNSでの個人の意見であるとはいえ、こうした意見が複数だされてくるということは、教団組織が、上記のような判決と法の施行を受けて、その精神を体現した研修や意識の教化育成を十分には行っていない証左だと思います。

 

 たとえば、「『正体隠し』は違法でも何でもなく、社会で普通のことです。共産党系民青も大学ではコーラス・グループ作ってましたよ。高額献金もそうですが社会の普通のことを如何にも悪者呼ばわりする巧妙な印象操作です」。

 

 また、「正体隠し伝道っていうのを禁止するような法律は作れない。人間は、常に正体がわからないカタチで出会っている。結婚だって、・・・・・・」などのポストもあります。

 

 これらはエックス(X)での自称・現役信者によるポストの内容ですので、本当に現役信者の意見なのかどうかは判然としません。しかし、教団がはたして、これまでの司法での判決を受けて、「正体隠しの伝道・勧誘は行ってはならない。なぜならば、・・・・・・」という信者向けの研修で遵法「意識」の教化育成を効果的に行ってきたのでしょうか?

 たしかに教団は、現時点でその公式Webサイトで、伝道の際は教団名を明らかにするように、と記載しています。しかし、それで信者の意識改革はできるのでしょうか? 上記のようなポストすなわち「『正体隠し』は違法でも何でもなく、社会で普通のことです」などという信者が今もいるということは、信者の中には「訴訟や法律がやたらとうるさいから、教団名を明かせということだろう」程度にしか、受け止めていない人もいると思われます。

 信者の意識を変えうる教化育成としては、たとえば、次のように説明すべきです。「過去の『正体隠し』の伝道は、道義的にも誤りであり、神も悪いことだと思し召されてきた。この点は大いに反省し、今後、信者は教団名を隠した伝道を絶対に行ってはならない」などと記載すべきです。筆者が知る限りでは、こうした真の意識改革は、現時点で行われていないと思います。

 

⑪追記4:教団擁護派によって「継続」されている非常識な意識―「司法よ、おまえもか」

 ついには、司法の判断に根拠もなしに「文句」をいう人がいます。たとえば、以下は教団擁護派のジャーナルスト・福田ますみ氏の論説です。立憲民主党の石垣のりこ議員にたいして、同議員のユーチューブチャンネルに投稿されている小川さゆり氏(仮称)の発言を削除するよう、東京地裁に教団が仮処分命令を申し立てて却下されたことについて、「裁判官は合理的常識的な判断を放棄し、詭弁、屁理屈に終始している。彼ら(裁判官を意味する―星本、補足)による捏造まで疑われ、およそありえない不当決定(不当判決)である」(月刊『Hanada』2023年、6月号、295頁・上段と下段)。もはや開いた口がふさがらないレベルの書きなぐりです。なお、本節のタイトル「司法よ、おまえもか」は同誌の305頁・上段における、福田ますみ氏の主張です。

 

 以上、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の組織および信者個人において、宗教団体として一番大切な「理念・情緒・意識」は本質的に改革されないままで、今日に至っていると思います。また、これまでの加害事実に教団は誠実に向き合っておらず、数多くの被害者が、十分な謝罪も補償を受けていません。つまり、問題は継続したままです。その意味からも、「継続性」があることは明白で、コンプライアンス宣言以後は訴訟が減っているなどとする教団の弁明は、まったく的外れな言い逃れに過ぎないと断じます。

 

宗教と金(1)

 このブログの主旨は、「宗教ないしスピリチュアル活動による魂の救済と世界平和は、金品と無関係であり、両者を関連づける宗教団体によるすべての行為に反対」というものである。

 ※以下「魂の救済」で意味しているのは、救われていない先祖の霊の救済(成仏)、ご利益(ごりやく)を受けること、霊障(とくに霊的な原因での病気)を除くことなどである。

 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)で、信者の財産を教団に献上させようとした以下の動画は、1998年1月のものである。多くの人が戦慄したことであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=GICoPbs8NTg

同教団では、こうした行き過ぎた「資金的収奪」(櫻井義秀、2023年、『統一教会中公新書kindle版、135頁の用語)が繰り返されてきたのであり、他の宗教団体とは別格の問題がある。そのことは、後で触れたい。

 神社でお賽銭を入れて願い事をする行為を参拝者はどう理解しているのだろうか。ほとんどの人が、とくに何も考えずに習慣化しているか、または、「仏壇や神棚にお供え物することと同じで、何が悪いの?」という認識だろう。もちろん、何も悪くない。強制されているのではなく、自分の意志でやっていることだ。金額も自由だ。では、100円を投げ入れるのと、1000円を投げ入れるのでは、後者の方こそご利益(りやく)が大きいと思うのだろうか? ならば、金持ちが100万円を賽銭箱に入れたら、その人に多めに幸せが行くのだろうか?

 神仏の存在を信じない人であれば、そもそもそんなことは否定するだろうし、神仏の存在を信じる人でも、それはありえないと、通常は思うだろう。金持ちほど、神仏に良しとされて、ご利益を多くいただくなどというのは、ありえないことだ。もちろん神道やほとんどの神社がそんなことを主張しているわけではないだろう。しかし、参拝する人の中には、無意識のうちにそう前提してお賽銭を入れる人は、たしかにいるはずだ。   

 だから、個人的な意見としては、神社の賽銭箱は、拝殿の正面に置くのではなく、神社の入口または出口、または、参道の途中などに置くのが良い。そして、「神社の維持運営のために、ご寄付をお願いします」という看板でもつけておけばいい。または、神社の入口で入場料を取り、賽銭箱は廃止する―つまり、賽銭とご利益・魂の救済は無関係であることを明言するということだ。

 同様の問題は、仏教の戒名でもみられる。もちろん寺や宗派によって違うので、戒名の値段とシステムは千差万別だろう。戒名が有料であること自体が、悪いと思わない。戒名をつけるために、僧侶が時間と労力を注ぐのだから、その人件費相当は請求されてしかるべきだ。故人の生前を彷彿とさせるという意味で良い戒名をつけてもらい、ありがたいと思うことは、自然なことだ。だが、戒名にグレードがあることには反対だ。聞くところによると、幼児が死亡したケースで数万円、一般には二、三十万円、そして高額なものでは百万円を超えるものがあるという。「高額な戒名ほどありがたい」という発想をしている人がいるとしたら、そんな考えはやめたほうがいいと忠告したい。金持ちほど、より極楽浄土に行けるなどありえないことだ。

 神仏や霊魂が存在するとしても、神仏・霊魂が人間の金品を欲しがり、ありがたがるなど、ありえないと思う。だが、仏壇や神棚にお供え物をしたり、花を飾ったりする行為を悪いとか間違っているなどと否定するつもりはない。それらは、神仏・霊魂・先祖を尊ぶ素直な気持ちの発露であると思う。

 家族の逝去の後に、人からご霊前・ご仏前などをもらったら、祭壇・仏壇にそれを置く。その行為は、お金を神仏や先祖・家族の霊魂に献じているのではなく、「この人から弔意をいただきましたよ」と報告しているのであって、ここで述べていることとは別だと思う。

 以上のように、宗教ないしスピリチュアル活動による魂の救済と世界平和は、金品と無関係であり、両者を関連づける宗教団体によるすべての行為に反対である。だからといって、神社が参拝者から賽銭をもらうことや、僧侶が戒名をつけることが有料であっても、一概に悪いとはいわない。ただ、それらは魂の救済や世界平和と無関係な、宗教というサービス業へのフェア(正当)な報酬の範囲であるべきだ。僧侶は労働の分類としては高度専門職だろう。大学教授の非常勤講師(他の大学に教えに行く、パート的な労働)の報酬は、90~100分の授業一回で1万円ぐらいだ(医者などの非常勤授業では、その30~50%増し)。これと比較すると、僧侶が戒名をつける時間が平均すると3時間としても、2万円程度が妥当なのではないか―私見です。

 最後に、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の資金集めについては、冒頭に述べたように、特異な事績が認められる。同教団の信者たちは、「他の宗教、たとえば通常のキリスト教でも献金でかなりのお金を集めているではないか」とか「先祖解怨で信者からお金を収奪しているというが、仏教の葬儀や法事や戒名も高額ではないか」と反論する。

 しかし、櫻井義秀(2023)『統一教会』(中公新書kindle版)がいうように、「献金所要額は、寺院の檀家としての護持会費年間約一万円や、キリスト教会信徒の年間献金額と比べても桁が違う」(133頁)のである。たとえ、仏式の葬儀や法事の金額がそれなりに高額なケースがあっとしても、それは家庭連合の資金集めを正当化する論拠にはならない。他の既成宗教で高額なケースがあるのならば、それも大いに是正されるべきなのだ。

 また、キリスト教をはじめとして他の宗教で、過去の歴史で高額な献金・財産献上があったとしても、その金額だけで是非を論じることはできない。たとえば、現代の社会保障(年金、医療保険生活保護、失業保険など)に相当するシステムが未発達な古代においては、キリスト教団がその機能をある程度担っていた。たとえば原始キリスト教では、「教会に集まる会衆の中に貧窮なるものや孤独な寡婦老人が多く、・・・・・・これを・・・・・・憐れみ扶助・・・・・・することは、・・・・・・キリスト教徒の主要な任務」であった(石原謙、『キリスト教の源流(上)』岩波書店、53頁)。だから、高額献金をしても、それは他の誰かへの社会保障に使われているのだし、将来、自分が窮地に陥ったとしても、教団からの扶助で生きていける―このように共同体として支えあって生きてゆけるスキームが、「家族と同様に隣人を愛する」教義として、古代のキリスト教では展開されていたのだ。

 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)のこれまでの献金システムが、過去のこうしたキリスト教献金事例と合致しているとは到底思えない。献金や先祖解怨などで家庭連合に財産を捧げつくして、老後の生活に苦しんでいる事例をいくつも聞いている。

 さすがにやり過ぎは良くないと、いまは献金に上限を設けているそうだが、高額の先祖解怨を(元)幹部が奨励したり、韓国本部に100万円未満の現金を持参するよう要請したりと、その資金集めの磁力は、このブログ執筆時点で、なお強力な印象を受ける。

 どんな宗教団体でも、憲法二十五条でいう「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に反するような、極貧状態に信者を陥らせることは、違憲であろう。

 最後に、宗教団体はその会計決算・監査結果を世間と信者に公表すべきだと思う。信者から集めたお金が、その教義と運営方針に則して適切に支出されていることをちゃんと報告することは、宗教団体の暴走や詐欺的な行為を抑止する、一つのステップになるだろう。

「憎い!」は悪い感情なのか?

 「憎い」カテゴリーの感情は各種あるが、その発端に自分というものがないものから、あるものへと私なりに濃淡を並べると、こうなる。

  1. 無関係なことへの怪しからん⇒
  2. 当事者としての怪しからん⇒
  3. 嫌い⇒
  4. 憎い⇒
  5. 恨めしい

 最初の二つは、義憤(公憤)といわれているものだ。ニュース報道をみていて、悪事を働いた垢の他人にたいして、正義と公正の視点から憤慨することや、学校でいじめをみて、自分は当事者ではないが、なんとかしてやりたいと思うこと、などが1. だ。

 つぎの2. は当事者として理不尽な経験をすることで、相手にたいして憤慨する感情だ。自分が当事者であるとともに、相手に非があることから、場合によっては強い怒りを発する。しかし、自分の個人的な経験というだけではなく、再発防止と他の犠牲者が出ないようにという利他の気持ちも大いに入っているのが、この2. の特徴だ。

 2.は、4.ないし5.は似ているのでよく誤解される。特異な信仰を持つ親から受けた虐待や金銭的収奪にたいして広く告発をする人などについて、「当事者なのだから、単に5. だろう」などという人がいるが、それは違う。2.の告発のもともとの動機は、義憤と利他なのだ。

 3. は人にたいして持つ嫌悪感といったもので、苦手、馬が合わない、避けたい、嫌い、などの感情だ。不思議なもので、初対面でなんの経緯も利害関係もないのに、こうした気持ちになる人がいるものだ。他の人との過去の経験がトラウマ・記憶になっているのか、本能的に自分と合わないタイプとわかるのか、理由はいろいろあるだろう。前世(過去世)があると説く宗教では、前世でトラブっていた相手だから、その因縁で出会ってしまうとともに、たしかに何かが起きる前ぶれなんだ、という説明も目にする。

 4. は具体的な出来事によって、特定の相手に発する感情のことをここでは指している。いうまでもなく、誰もが持つ感情だ。

 5. は4. が反復して心の中で生起するもので、憎いの進化型といった意味でここでは使っている。

 こうした「憎い」とくに4.の感情に対処するための一つのコツは、修練・修得つまり身につける、ということだと思う。車の運転中に、突然他の車を追いかけまわして煽り運転をするような人がいる。そういう人の心境をあとでよく聞いてみると、「無理な横割りをされて怪しからんと思い、頭にきた。思い知らせて、正してやろうと思った」などと言っている。だが、横割りをしたという相手に事情を尋ねてみると、前を自転車がフラフラと走っていて危険だと思ったから、少し車間距離は少なかったが、車線変更をさせてもらった」といった程度の理由にすぎなかったりする。

 横割れをされても「急いでいらっしゃるのかな」「こちらで気づかない事情があるのかも」「自分もたまにやっちゃうことあるよな。お互いさま」「運転が未熟みたいね」などと受け取る習慣を身に着けると、だんだんと腹がたたなくなるものだ。

 5.の対処法の一つは、「時が解決する」というものだ。夏目漱石の『草枕』(新潮文庫)に次の一節がある。「憐(あわ)れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である」(128-129頁)。この「あわれ」は「もののあわれ」。少し古い表現だが、しみじみとしたセピア色の情感だと私は理解している。

 キザな言い方をすると、愛憎が脱色してしみじみとしたセピア色の思い出になったとき、人は神に近づく。『草枕』のクライマックスは、このテーマを完結している。人間ドラマてんこ盛りの文学と違い、『草枕』のいう「非人情」のなんと深淵なことだろう。欧米の小説家には決して書けなかった、まさに東洋的な、千年に一度の名著と思っている。

 とはいえ、そうした受け止め方をしないとダメだ、などと偉そうに主張するつもりは毛頭ない。そう簡単なことではないのは、当たり前だ。

前世(過去世)の因縁って、あるのかな。

 以下は、前世(過去生)のカルマ(因縁)があるという前提で書いている。

 個人的なイメージだが、人生は巻物に描かれた地図の上を歩んでいるようなものだと思う。巻物なので、遠い先は見えない。もちろん選択の余地はあり、道(因縁)が枝分かれしていて、どれを選ぶかでその後の因縁の展開は変わる。新たな道を切り拓く余地もあるかも。

 人生のさまざまな選択の中で、進学先、仕事の選択、結婚、退職後の生き方は、4つの重大な決断だ。それぞれの決断後にかかわる相手と、時間・場所・出来事を共にする。

 不思議なことに、学校や職場で馬が合わないと距離置いてきた相手ほど、なぜかクラスや席や配属が一緒になる。腐れ縁、逆縁。これは、偶然ではなく前世の因縁で引き合うのだろう。そして案の定、何かが起きるのだ。

 前世の因縁で出会う結婚相手とは、因縁を日々共有して、人生の道をある程度は同行して歩むことになる。結婚は、前世の因縁を発現し、経過し、越えていく心の修行のプロセスの一面もあるのだろう。※結婚する相手が、前世で夫婦だった人とは限らない。

 前世で夫婦だったからといって、いいことばかりではない。前世でトラブっていた夫婦なら、その後に因縁が出て、やはりトラブる。

 唯物論者なら即離婚のケースでも、前世ありと思う人は、相手を責めるより、因縁の発現と受け止め、できれば共に乗り越えようと、まずは思うのかもしれない。前世の因縁と受け止めて、我慢しろという意味ではない。即離婚か、もう少し頑張るのか、どちらがいいのかは、一概にはいえない。

 いずれにしても、今生で自分が生み出す身口意(しんくい:口と心と行い)が、また新たな原因となって次の因縁につながるのだし、そこは自分の努力でおそらく変えられるので、善処を心がけたいものだ。「善い行動や善い言葉や善い思考によって、心に刻まれたポジティブなエネルギーが、・・・煮られ熟成するとき、さまざまな幸福に満たされる」(小池龍之介編訳『超訳 ブッダの言葉』、063頁、法句経120)。

政教分離と政教一致―雑録

 デンマーク王国は、憲法第四条で、福音ルーテル教会を国教と定めている。ルター派キリスト教だ。これは、政教一致または政教不分離の形態の一つだろう。国教の維持のために、信者には教会税というのが課されている。しかし、「自己の信条・・・の故に・・・権利の完全な享受の機会を奪われない」(憲法第七〇条)と規定しているので、信教の自由や他の宗教の存在を禁止したり否定したりしているわけではない。イギリスでは、国王は同時にイギリス国教会の首長でもある。

 イスラム圏の国を除いて、現在、国教を持っている国は少ない。むしろ、憲法で国教を禁止し、政教分離を規定している国の方が多い。しかし、特定の宗教団体が政党や代議士を持っていて、政治の世界でそれぞれの理念を政策に反映させようとしている例は多い。また、人類の歴史では、国教あり、または、政教不分離の事例がいくつもある。いわば、「国または宗教組織が、政治と宗教の両方を持っていた状態」は、実は歴史では非常に多いのだ。

 そこで以下では、まとまりのない事例集になってしまうが、現時点で知りうる限り、国教や政教不分離の歴史の事例を少しばかり挙げたい。

 7世紀にイスラム勢力がエジプトを征服した後、イスラム教がエジプトの事実上の国教となった。その後、それまでエジプトで主流だったコプト教キリスト教の一派)信者にのみ、人頭税(じんとうぜい、または、にんとうぜい)が課された。この人頭税のことをジズヤというそうだ。そうすると、時代を経て少しずつコプト教徒が減り、数百年かけてイスラム教徒がほとんどになったという。コプト教徒として残った人たちは、課税に耐えられる裕福な家庭の人たちだったようだ。

https://cambridge.org/core/services/aop-cambridge-core/content/view/3407860149F95ACC44E489D1D7F526FB/S0022050718000190a.pdf/on_the_road_to_heaven_taxation_conversions_and_the_copticmuslim_socioeconomic_gap_in_medieval_egypt.pdf

 

 人頭税は、たとえば各家庭の成人男子の人数に応じて課される税金、といったものだ。現代の先進国ではほとんど耳にしない。以下、個人の理解である。人頭税とは、成人男子は働いて収入があるだろう、ということを根拠にしてざっくりと課税するものだったのではないか。古代から近世にかけて、金銭による給与所得が必ずしも収入の主流ではない時代では、各人の所得を為政者が正確には知りえなかったから採られていた税制、ということなのかもしれない(以上、個人の見解)。

 ジズヤは、①イスラム教を国教としつつも他の宗教を許容する統治手法をベースとし、反乱や暴動を避けつつ年月をかけてイスラム教徒を増やしていく、という機能と、②非イスラム教徒からの税収を揚げる、という機能がある。後者については、たとえば、支配者階級であるイスラム教徒でのみ軍隊が構成される場合には、非イスラム教徒は安全と平和という目に見えないサービスをイスラム教徒から受けるのだから、その代償として、特別の税金を支払うべきだ、という理屈である。

 上記の①と②はときには相反する。イスラム勢力が支配している地域で、イスラム教への改宗がいつも奨励されていたかというと、必ずしもそうではなく、税収増のために、イスラム教に改宗しないようにと人々は働きかけられた、という事例も聞く。

 たとえば、塩野七生氏の『ローマ亡き後の地中海世界―海賊、そして海軍―1』(2016年刊、新潮文庫)では、一時期イスラム勢力に征服されていたシチリアの事例を紹介している。「シチリアイスラム教徒ばかりになってしまっては、非イスラムに課されるこの税も徴収できなくなる・・・・・こうしてシチリアのアラブ人は、実に現実的な支配の方法に到達したのである。まず、被征服者であるシチリア人に、イスラム教への改宗を奨励しないことにした。いや、改宗しないよう奨励したのである」(234頁)。

 国教がある場合の「宗教税制」(私・星本の造語)は、人々の行動に大きく影響する。塩野七生さんによると、古代ローマでも「キリスト教を公認した・・・帝の二人によって、キリスト教会に属する聖職者は免税と決まった。地方自治体の有力者層が、雪崩(なだれ)を打ってキリスト教化した真因は、これにあったのだ」(塩野七生ローマ人の物語XIV』、kindle版、「キリストの勝利[上]」(2005年、2024-2025頁)。

 国教がありつつも、他宗教に寛容な政策の一つとして、ジズヤは非常に興味深い。ちなみに、キリスト教が国教となった後の西欧諸国では、他宗教には原則として不寛容であった。

 近代以降は、宗教を政治と切り離す傾向が強くなっていく。たとえば、小笠原弘幸(2020)『オスマン帝国』(中公新書)によると、オスマントルコは非イスラム教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を1855年に廃止し、兵役免除税という形に置き換えている(241頁)。国教を持ちつつも、宗教の平等へという大きな転換といえるだろう。

 国教がありつつ、他の思想・信条に不寛容な体制では、ときとして残酷な迫害が起きる。キリスト教がすっかり浸透していた5世紀のアレキサンドリアで、ヒュパティアという名のギリシャ哲学の泰斗(女性)が、キリスト教徒に惨殺されたのはその一例だ。彼女が  “キリスト教に批判的であり、しかも、淫乱で怪しげな儀式を行っている” との噂が広がり、狂信的なキリスト教徒たちは彼女を殺そうと機会をうかがっていた。そしてついにある日、犯人たちは彼女を捕えて殺害した。牡蠣の貝殻で肉片を削り取られたと伝わっている(生きたままなのか、殺害後なのかは不明)。一説では、犯人たちは血のしたたる彼女の肉片を持って行進したという。他に不寛容な政教一致は、まさに地獄絵図だ。

(ヒュパティアについては、本村 凌二『地中海世界ローマ帝国』2007年、講談社、332-333頁を参照。映画『アレキサンドリア』は、ヒュパティアがテーマである。)

心の中からの声―自分にとっての何かを選ぶということ

 日常生活は選択の連続だ。とくに、自分(達)にとって何かを買う、使う、借りる、決める、を我々は繰り返している。そのとき、周りや世の中への配慮を気づかせてくれるのは、自分の心の中からの声だ。

 先日、スーパーである客が一番いいバナナを買おうと、バナナの山を乱暴にひっくり返していた。「えー? バナナが痛んで、皆が迷惑するのに」とみていたら、その知人らしき人が、申し訳なさそうな視線を返してきた。何かを選ぶときに、自分の利害・都合だけでなく、他の人や世の中への配慮をもって決めるのは、実にエレガントだ。

 自分にとっての何かを選ぶときに、利己と自分中心にならず、周りと世の中への配慮を教えてくれるのは、自分の心の中からの声。「声」といっても、言葉になっているわけではない。気づく、ということだ。

 たとえば、靴を脱いで靴箱に入れるときに、周りに高齢者が多いことに気づくと、自分は一番下を選び、入れやすい上の方を人様のために空けておく、といった行動につながる。

 こうした行動を取ると、自分の心が喜んでいるのが感じられて、幸せな気分になるから不思議だ。

 自分にとっての何かを選ぶという行為は、生きるために衣食住などを手に入れなければならないという生存本能つまり「欲しい」に由来しているように思う。自分の生存のために必要な財・サービスを手に入れようとするのだから、まずは自分という物差しがあるのは当然だ。だから、欲しいということが悪いわけでは全然ないが、自分の利害損得のみに汲々とするのは、避けたいものだ。

 天理教の教義に「反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ・・・」とあるね(『天理教教典』68頁)。また、天理教道友社編(2015)『天理教の考え方・暮らし方』(道友社)では、「あれが欲しくてたまらない、無理をしてでも自分のものにしたいと思うようになったら、それはすでにほこりの心づかいです」(125頁)とある。ここでいう「ほこり」とは、いつのまにか心に溜まってくる汚れという意味であろう。

 天照皇大神宮教の六魂清浄「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた」を清浄にせよ、というのも、そうしたことなのだろうか。

 自分にとっての何かを選ぶときに、一瞬だけ間を置いて心の声を感じ取ろうとする習慣を身につけたいと思っている。

『日蓮の手紙』を読んで

日蓮の手紙』(植木雅俊訳、2021年、角川ソフィア文庫)を読んで、日蓮のイメージが変わった。細やかで素晴らしい指導者だと今や思う。そして、博覧強記かつ実行力に満ちた人だったのだろう。

 日蓮が、信者の四条金吾に宛てた手紙の中に、崇峻天皇殺害の歴史に言及し、短気者の金吾を指導したくだりがある。九思一言(くしいちごん)せよと。九度考えて初めてひとこと言うべき、との意味だ(156頁)。

 崇峻天皇から、人相について聞かれて聖徳太子は、天皇の目に赤い筋があり、人に憎まれる相だから、仁義礼智信を心がけるよう忠告したらしい(158頁)。聖徳太子にみえた筋とは、いわゆる死線のようなものなのだろうか。

 崇峻天皇はその後、献上された猪の子の眼をこうがいでずぶずぶと突き刺し、「いつか憎いやつをこのようにしてやる」と言った。この件が蘇我馬子に伝わり、先んずるしかないと馬子は天皇を暗殺した(159頁)。

 他にも、人に妬まれ恨まれていた武士にたいして日蓮は、夜道を歩くときに襲撃されないようにと細やかな注意を与えたり、訴訟の際の返答や立ち居振る舞いにいたるまで、細やかに指導したりしている。

 また、当時は女性を差別するような仏教思想もあり、ある女性信者が日蓮に、生理中に法華経を唱えてよいものかと、相談している。日蓮は、生理は自然の摂理なのでまったく気にしなくてよいこと、仏教の真の教えでは男女の差などないことを的確に指導している。