心の中からの声―自分にとっての何かを選ぶということ

 日常生活は選択の連続だ。とくに、自分(達)にとって何かを買う、使う、借りる、決める、を我々は繰り返している。そのとき、周りや世の中への配慮を気づかせてくれるのは、自分の心の中からの声だ。

 先日、スーパーである客が一番いいバナナを買おうと、バナナの山を乱暴にひっくり返していた。「えー? バナナが痛んで、皆が迷惑するのに」とみていたら、その知人らしき人が、申し訳なさそうな視線を返してきた。何かを選ぶときに、自分の利害・都合だけでなく、他の人や世の中への配慮をもって決めるのは、実にエレガントだ。

 自分にとっての何かを選ぶときに、利己と自分中心にならず、周りと世の中への配慮を教えてくれるのは、自分の心の中からの声。「声」といっても、言葉になっているわけではない。気づく、ということだ。

 たとえば、靴を脱いで靴箱に入れるときに、周りに高齢者が多いことに気づくと、自分は一番下を選び、入れやすい上の方を人様のために空けておく、といった行動につながる。

 こうした行動を取ると、自分の心が喜んでいるのが感じられて、幸せな気分になるから不思議だ。

 自分にとっての何かを選ぶという行為は、生きるために衣食住などを手に入れなければならないという生存本能つまり「欲しい」に由来しているように思う。自分の生存のために必要な財・サービスを手に入れようとするのだから、まずは自分という物差しがあるのは当然だ。だから、欲しいということが悪いわけでは全然ないが、自分の利害損得のみに汲々とするのは、避けたいものだ。

 天理教の教義に「反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ・・・」とあるね(『天理教教典』68頁)。また、天理教道友社編(2015)『天理教の考え方・暮らし方』(道友社)では、「あれが欲しくてたまらない、無理をしてでも自分のものにしたいと思うようになったら、それはすでにほこりの心づかいです」(125頁)とある。ここでいう「ほこり」とは、いつのまにか心に溜まってくる汚れという意味であろう。

 天照皇大神宮教の六魂清浄「惜しい、欲しい、憎い、かわいい、好いた、好かれた」を清浄にせよ、というのも、そうしたことなのだろうか。

 自分にとっての何かを選ぶときに、一瞬だけ間を置いて心の声を感じ取ろうとする習慣を身につけたいと思っている。