旧統一教会への解散命令の必要性

 東京地方裁判所の皆さまへ―織り込みずみかと存じますが、市井の声としてポストします。解散命令請求の際に論点となった三要件のうち、「継続性」についてです。以下、諸説を引用・検討した結果、「継続性がある」と判断するに至った理由を述べます。

 

 以下の主張内容は、あくまで筆者個人による批評・論評です。法律の素人である筆者が以下のような主張を裁判所宛てに書くのは、僭越かつお恥ずかしい限りですが、市井の声の一つとして届けば幸いと思い、入力・公開いたしました。

 

 また、筆者は教団内部の者ではないので、内部的な一次情報を持つ教団ないし信者からの反論・異論は今後ありえます。その場合には、若干の加筆・修正がありえる点を申し添えておきます。

 

 なお、世界平和統一家庭連合は、「開催命令請求に至る考えそのものが、民事案件にもとづくものであるから、請求そのものが無効である」または「現在の事態は宗教弾圧である」との抗弁を展開するかもしれません。しかし、これらは、裁判所から一蹴されると予想していますので、以下では触れません。

 

SNSでの発信内容は、本人が必ずしも確認できないという意味で、引用するには信頼性に欠ける面があります。しかし、直近の動向を示すというメリットに鑑みて、以下ではあえて紹介させていただきました。

 

①組織的で悪質な行為の元である「意識」は継続している 

 解散命令請求にたいして、同教団(以下、教団ないし統一教会と称する。)および信者は「2009年のコンプライアンス宣言以降、訴訟は激減している」「改革を重ねてきたので、現在の組織には悪質性はない」と主張しています。つまり、「継続性はない」とのアピールですが、筆者が詳しくみるところ内実は真逆であり、問題は継続していると思います。

 

 まず、継続性とは、たんに訴訟件数が減っているかどうかで測られるべきではないと思います。献金等の返還要求の訴訟を減らそうと思えば、教団が個別の返金交渉に潤沢に応じれば外見上は達成できます。しかし、「社会的相当な範囲」を逸脱してでも、多額の献金をすることを良しとする「意識」、それを集めようとする「意識」が変わっていなければ、量的には減っても質的には同等な事案・事件が起きます。それは今後も起こりうるということを意味しています。

 

 たとえば、2018年に富山で起きた、委任状を偽造して女性信者の息子の貯金をおろして献金させた事件は、婦人部長という役職の立場にある者が、もう一名の信者と共謀して、教団の行事が行われていた施設内で働きかけて、行ったものです。

旧統一教会主張と被害証言に大きな落差 息子の貯金を“偽造の委任状”で下ろして献金 元信者「この教団は組織でしか動けない」【報道特集】 | TBS NEWS DIG (3ページ)

 

 通常の組織であれば、こうした事案に対応して、犯人たちは組織内で懲戒処分を受けたうえで、組織の構成員にその顛末が周知されます。そうした周知の目的は、再発防止のために、構成員のコンプライアンス意識を訓育することです。富山の当該事件の後に、こうした対応を教団が十二分に採ったという情報は今のところ確認できません(教団内部のことなので、絶対とは言い切れませんが)。もしこうした訓育が行われていなかったとすれば、2009年のコンプライアンス宣言は、信者の「意識」改革という真の改革を伴うものではなかったと思われます。

 一部の現役信者は、「自分の周りでは高額の献金被害などない」「そんな要求をされたことはない、聞いたこともない」などと言いますが、実態は下記のサイトなどにあるとおりです。

《解散命令を請求》統一教会はコンプライアンス宣言後も年間600億円の献金集め〈内部資料入手〉 | 文春オンライン

 

 結局、教団のコンプライアンス宣言とは、「大きな問題が起きたり返金訴訟になったりすると教団にとってかえって損失だから、そうならないようにブレーキをかけよう。しかし、献金尊いし多いほどいいので、それなりに集めたい」というスタンスから出たものと思われ、献金にたいする意識の根本は質的には変わっていなかった、と思います。

 

②札幌地裁2012年3月判決の「情緒」の重要性

 郷路征記(2022)『統一協会の何が問題か―人を隷属させる伝道手法の実態―』花伝社、90-91頁にあるように、入信の経緯における教団の手法とりわけ正体隠しの伝道は、違法との判決が、おおむね定着していると理解しています。

 

 この2012年3月・札幌地裁の判決文「信仰による隷属は、あくまで自由な意思決定を経たものでなければならない。信仰を得るかどうかは情緒的な決定であるから、ここでいう自由とは、健全な情緒形成が可能な状態でされる自由な意思決定である」(郷路、2022、90頁)を郷路氏は引用して、「論理ではなく情緒なんだ」「憲法の理念を基に評価、判断している判決」(同、91頁)と解説しています。

 

 こうした違法な入信によって培われた精神的な土壌のうえに、その後の「霊感商法」や献金等の信者の活動路程が形成されているといえます。

 

 事業法人は、収益動機を理念とします。地方自治体の理念は「住民の福祉の増進を図る」(地方自治法、第一条の二)ことです。宗教法人ではこうした他の法人と異なり、教義・摂理などに基づく理念・情緒・意識が、その運営に強く反映されます。宗教法人法第二条で「『宗教団体』とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする」とあるように、教義と教化育成が、その根本にあるという点で、他の法人と異なっています。

 

 そうした宗教法人である統一教会が、新たな信者の勧誘における伝道、および、入信後の教化育成において、正しい理念・情緒・意識をプログラム化してこなかった点は、宗教法人としての資格そのものを欠いているといえます。

 

③被害案件が解決されていないことも、継続性を意味する

 旧株式会社ジャニーズ事務所が、被害をうったえる人たちにたいして、まず「謝罪」したうえで、被害者救済委員会を設置して、補償を進めていることに較べれば、統一教会の対応はとても不誠実だと感じます。まず、教団の記者会見では、「申し訳ない」とは言っても被害者への「謝罪」との文言は使わないという方針で徹底してきました。過去に違法(不法)判決がでた案件については、たしかに「被害者」という認識を示すものの、判決がでる前の段階であれば「被害を受けたといっている人たち」などの表現を使っています。

 

 被害をうったえる人たちへの教団のこれまでの対応については、個別に返金交渉で対応し、少額の提案で遅々として進まない、と批判されてきました。水俣病訴訟で、チッソが最初は加害事実を認めずに、個別の「見舞金」交渉で対処していたことに酷似していると感じるのは筆者だけでしょうか。

 

 つまり、過去の「社会的相当な範囲を逸脱」した献金等の結果、日々の生活に困窮している人たちの真の救済は不完全であり、そうした意味でも問題は継続しています。日本国憲法第二十五条でいう「健康で文化的な最低限度の生活」を営めなくなった原因として、教団による資金収奪があったうえで、救済も補償・返金も十分にされていない被害者がいる以上、解散命令を含めて、包括的財産保全などの措置が講じられることは、必要かつ当然のことと思います。

 

献金を正当化する信者の意識が、いまも「継続」している事例

 教団の現役信者がSNS等で発信する意見として、非常に多いのが「献金はそのときに本人の意志でしたものであるのに、なぜ返金の必要があるのか」です。こうした発想は、教団の献金問題を一般論にすりかえて正当化しようとするものです。現役信者は、たとえば、仏教の檀家が寺に月々の会費を支払うといった事例などを念頭においているようです。そして、財産の処分権にもとづいて本人がそのときに決定したのであって、嫌なら断ることもできたはずだから、それを後から返してくれというのはおかしい―こういう意見です。

 

 他には、「同じように献金をしたのに、脱会した人は返金を要求して、いまも信者である人は要求しないなんて、理屈が合わない」「献金尊い。為(ため)に生きる利他の行いだ」「神に捧げたものを返せなど自分は思わない」「献金は天国創建のために捧げたものであり、その使途がどうとか後から心配などしない」「献金は天国に貯金するものだ」などがあります。

 

 このように信者の意識が変わっていないゆえに、2009年のコンプライアンス宣言以降でも、高額献金を教団が受け取った事例が、下のURLのとおり報道されています。1億円以上の被害である、とのことです(報道番組の内容です)。

https://twitter.com/i/status/1713772781744115995

 

 以下は、現役信者(自称)のSNSでの発信内容の引用です。個人の特定を避けるため、本文のみとさせていただきます。「信仰とは自己の事情よりも神の事情を優先する事。統一教会厳しく自己犠牲を求めるのは、これが理由。だが、厳しい自己犠牲が必要になるのは、今が霊的戦争の時代だから」「地上天国の礎が完成すれば厳しい犠牲は無用となる」。

 

 そして、トランプ・元米大統領のメッセージに数億円を支出したということについては、「統一原理には『条件』という教義があり、その行為を神とサタンがどう評価するかによって天国創建が近付くか遠のくかが決まるという思想がある。天国とは神が完全に保護権を主張できる国家。逆にサタンが完全に支配権を認められた国家が地獄となる。今は全ての国家が神もサタンも影響力を主張できる中間位置にある。どちらに近いかの差はあるが、完全にどちらという事ではない。大統領が謝礼目当てであってもメシアを支持したという事は、それは神の影響力行使の根拠となるし、サタンも納得せざるをえない。報酬目当てだから完全ではないにしても、無意味ではない」と、元大統領への支出を正当化しています。

 

 こうした献金ゆえに、多くの日本の信者とその家族が、生活を破壊されていることについて、「自己犠牲」であるとは確かにいうものの、いまは我慢すべきだ、との認識であることが窺われます。他にも「信仰してる時は感謝して捧げました→信仰辞めたので返金してください・・・・・・こういうのは被害と言い難いと私は思います」と信者はポストしています。

 

 結局、「憲法第二十五条に反する(またはそうなると合理的に予見できる)献金、社会的に相当な範囲を逸脱してる献金は、たとえそのとき献金する信者の意志であったとしても、教団は受け取ってはならなかった」という意識を教団の(少なくとも一部)信者は、いまも欠落しています。

 

 生活保護は、憲法第二十五条に立脚して、公金つまり税金を使って国民の生活を補助する制度と理解しています。教団による多額の献金集めが原因で、生活保護(すなわち税金の投入)を受ける(または受けた)信者・元信者がもし一定程度いるのであれば、教団が宗教法人として税の優遇を受けてきたことは、社会の公正の観点からも是正されるべきであり、大鉈を振るう時期がきたと思います。

 

 献金についての教団と信者の以上のような意識は、筆者のみるところ、次の三つの考えが信者の意識の中で混然(渾然)一体となっていることに由来します。その三つとは、1. 施しつまり喜捨という意味で、献金の行為そのものが尊いということと、2. 教団に献金したら、それは途上国への支援や科学・医療の発展など利他(為に生きる)ことに使われているはずだ、3. 教団の存在と諸活動そのものが天国創建を進めているのだから、献金尊いのだ、です。

 

 3.については、たとえば、信者は「教団はボランティア活動など良いこともしているし、悪質な資金収奪を若い自分は経験したことがなく、すでに行われていない」などとアピールします。しかし、少しばかり良い行いが同教団にたとえあったとしても、これまでの組織的で悪質な加害事実が帳消しになるはずがありません。

 

 2. については、教団とその関連団体の収支決算が信者にも世間にも十分に公表されてはおらず、信者が思い込んでいるイメージに過ぎません。つまり、エビデンスがありません。信者数に比して職業宗教家が多い同教団としては、献金が第三者のために純粋に支出されている比率は、他の教団よりも低いと予想されます。また、クラウド・ファンディングや善意の募金などと称しながら、実は教団ないしその信者による正体隠しの資金集めだ、との事例はすでに指摘されていますし、元信者の経験談としても語られています。たとえば、下のリンクのとおりです。

https://twitter.com/tsuboTSURUKO/status/1748256476035006626

 

 教団によるこうした詐欺的な募金行動は、世の中にマイナスの影響をもたらします。たとえば、人々はこうした事例を知って「災害地域への支援のためにクラウドファンディングしようかと思ったが、宗教団体による詐欺の資金集めの可能性はないだろうか、それとも、本当に正当な募金なのだろうか。その区別がわからないので、いまはチャリティーをやめておこう」と躊躇するからです。

 

 つまり、本当に善意からの募金が、被災者などの相手に届きにくくなるのです。手短にいえば、情報の非対称性による逆選択が起きるわけです。募金をしたい人は、その組織が正当かどうかの情報を持っていないがゆえに募金をしなくなり、「本当に援助が必要な人々にお金を届ける」というチャリティーが本来持っている機能とは、逆の結果が起こるのです。このように、たとえ過去の事例が原因であっても、現在もその影響が「継続」している可能性はあります。こうした詐欺的な募金は、文化庁の解散命令請求の内容に含まれていないだろうと予想しています。しかし、これもまた、統一教会による、公共の福祉を害する行為が継続している可能性を秘めていると思います。

 

 宗教法人法第八十一条では「裁判所は、宗教法人について左の各号の一に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる」とあります。政府が調べ上げた結果としての解散命令請求文書は、たしかにほぼ網羅されつくしていると思いますが、審問の過程やその後の経過で、新たに「公共の福祉を著しく害する行為」が明らかになることもありえます。上記の正体隠しかつ詐欺的なチャリティーはその典型です。同法第八十一条「職権で」に鑑み、解散命令請求の内容を職権にてさらに掘り下げ、そうした事例も取り入れてくだされば幸いです。

 

 1.については、喜捨の動機そのものが尊いという、当たり前のことを言っているだけです。信者が、教団からの指示もなく、教団を通さず、報告もせず、困っている人をみて施しをした、という事例がたとえあったとしても、教団への異常に多額の献金を正当化する論拠にはなりません。教団はむしろ、「サタン世界(≒教団以外の世間)の所有物は、天に復帰せよ(献金、貢納せよ)」との「万物復帰」の摂理によって、信者の財産を収奪してきたのです。

 

 結局、「献金尊い。為に生きることだ」との信者および教団幹部の発想は、献金の動機としての喜捨(上記1.)を盾にした根拠なき思い込みにすぎないと思います。

 

統一教会は、公益法人として、精神的安定を与え社会に貢献してきたのか

 

 宗教法人の存在理由は、まさに精神・情緒・意識の安定・至福を目指すことにあります。解散命令を請求した際の盛山文部科学大臣の説明に以下がありました。「宗教法人が公益法人である理由は、宗教活動によって不特定多数者に精神的安定感を与え、社会に貢献すると期待されていることにあります。ところが、旧統一教会の行為は、・・・・・・多くの方々を不安や困惑に陥れ、・・・・・・財産的・精神的犠牲を余儀なくさせて、その生活の平穏を害するものであった」。 

 

 財産的な被害だけではなく、精神的な被害も解散命令請求の理由としている点で、大いに賛同できるものです。それに対して現役信者は、上記の引用のように、いまも「厳しく自己犠牲を求める」などと主張していることからも、信者の意識改革が不十分であると改めて思われます。

 

 宗教法人が、その組織運営のために必要な経費を社会的に相当な範囲で信者から集めることは、一般的に許容されるものですが、そのことと、「献金は天に捧げるもの」「献金尊い」などと称して、常軌を逸した金額を集めることとでは、質的に異なります。教団は「献金は原則として収入の3割まで」とか「10万円を超える献金には領収書を渡すことにしている」などと改革した旨をアピールしていますが、その前に、そもそも教団と信者の意識・スタンスとして、「献金は天に捧げるもの」「献金尊い。利他の行い」との意識は十分に改革されていません。

 

 献金は、教団の運営のためのものであり、「天に捧げる」ものではありません。神仏が人の金品を欲しがるわけがないのに、信者は「どんな活動をするにも現代社会ではお金が必要で、信者の献金によってそれが可能になるという意味で、条件立てになるのであり、神はそれによって力を発揮できる」などと、「献金は天に捧げる」つまり「神は多額の献金・犠牲でも良しとされる」といった意識を変えようとしていないようです。

 

⑥公共の福祉についての意識が低い

 解散命令請求に際して、「公共の福祉を著しく害」してきたことが論拠となりました。同教団の信者の「公共の福祉」についての意識は、やはり一般の常識からは逸脱している側面があるように感じます。「公共の福祉」の公共は、もちろん国や役所(official)ではなく、publicです。

 

 教団の弁護士は、次のようにSNSで言いました。「信者が平穏な生活を楽しんでいる状態を示す。それは解散のときの信教の自由の侵害が大きいという認定につながる。そのために、公共施設を家庭連合名義でバンバン利用する。申請する。却下されたら争う」。

 

 市民センターなどの公共の施設は、ちゃんとした目的をもって利用申請されるべきです。上記は、「教団の正当性を示すため」という隠れた目的のために、「信者が平穏な生活を楽しんでいる状態を示す」という表向きにすぎない偽りの目的を使って、利用申請しようというものです。しかも、「バンバン」利用する、と。その結果、他の利用者が使えなくなることについて、顧慮していません。「公共の福祉」をなんと心得ているのだろうかと心底、首をかしげる内容です。

 

⑦結論:教団と信者の意識は変わっていない。真の改革は行われていない。 

 宗教法人にとっては、理念(教義・摂理)・情緒・意識は、教団運営に強く影響します。これまで教団と信者が引き起こしてきた、様々な害悪(法令に反して、公共の福祉を害した行為)の根本には、入信時の違法な勧誘・伝道をベースとする、特異な情緒や意識があります。その意識は、2009年のコンプライアンス宣言によって質的な転換を遂げたとはいえません。だからこそ、過去の被害実態にたいして教団が誠実なスタンスで対応しているとは言い難いのです。以上の理由から、これからも被害が生じる可能性を否定する論拠はないと判断できると思います。

 

⑧追記1:意識の改革ができない理由

 信者は献金等について、いまだに荒唐無稽な主張を繰り返しています。意識の改革ができない理由は、これまでの隷従と思考停止のプログラムにあるかもしれません。つまり、教団が入信のときに、特異な考えを刷り込むからです。以下、それについての引用を示します。ただし、そこで説明されている内容が、今日の教団信者にもストレートに当てはまるのかどうかは、即断はできないと思います。信者の考え・意識を教団がどのように教化育成しているのかについては、教団の意見も十分に聞く必要があることは、いうまでもありません。

 

 「まず、善悪の判断基準を変えます。・・・・・・たとえば親の財布から金を盗んで統一協会献金をするというような、私たちが常識的に悪として判断することも、神のためなので善なのです。・・・・・・盗まれた人も神様に献金したことになり、救われるというのです。したがって、それはしなければならないことになります。・・・・・・すべての反社会的な行為は神のため、メシアのためであり、統一協会にとっては善なので、やらなければなりません」(郷路征記、『統一協会の何が問題か』花伝社、2022年、37頁)。

 

 こうした意識の根は、経典である『原理講論』の「第二章 堕落論」にあります。教団の教義の中で「堕落論」は特異なものであり、「万物復帰」を含めて、教団の様々な考えのルーツとなっています。エバとルーシェル(ルシファー。堕天使)が「不倫なる霊的性関係を結ぶ」(『原理講論』第5版、2020年、109頁)に至り、その後、エバとアダムが「肉的に不倫なる性関係」(111頁)を結ぶに至り、「サタンの血統を継承した人類が、今日まで産み殖えてきたのである」(同頁)、と。つまり、現代世界の人々は、サタンの子女であり、その血統も、所有物も、考えも、神に背いた汚れたものであり、教団の世界こそが善である、と教えてきたのです。

 

 それゆえに、人々の金員を献上させたり、不動産の名義を教団に変えたりすることが、それらを浄める尊い行為とみなされてきたのです。教団の基本視角は、神vsサタン、原理(神の教え)vs共産主義(神を否定する唯物論)、教団世界vs(汚れた)一般世界、といった極論で首尾一貫しています。

 

 こうした理解のうえで、万物復帰(人々の所有物はサタン世界の汚れたものだから、教団・天に捧げることで浄められる)といった意識が続き、さらに、信者同士の夫婦から生まれた子は、祝福二世として生まれながらに原罪がなく、それ以外の信者の子である信仰二世とは異なって清らかな存在である、などという教団内の差別意識が「継続」されています。通常の宗教のような「出自・人種・先祖などに関係なく、人の心に神的な部分と悪魔的な部分があるので、組織的な役割分担は別として、平等の視点から互いを尊重し励ましあって向上を図ろう」という教団運営と、家庭連合の運営は大きく異なります。

 

 意識改革が教団でうまく行われていない可能性として、別の引用を紹介します。「統一協会員の確信は、日々の実践活動によって、より強められ深められていきます。『アベル』と言われる統一協会の上司に『報連相』(報告・連絡・相談)を強いられることで、統一協会に隷従するよう仕向けられ、逃れられないようにされていきます。統一原理に反する生き方をすれば『霊人体』は完成せず、地獄に行くことになるとか、統一協会に対して不信を持ってはならないとか、分からないことにも深い意味があると考えろといった、思考停止させることを教化されます。活動が進展するのにともない、世界を『神』対『サタン』の対立としてとらえるようになるため、協会員以外の人たちに対して排他的な姿勢や恐怖心を持つようになっていきます。これによっても、統一協会から逃れられなくされていきます(櫻井義秀『統一協会―性・カネ・恨から実像に迫る―』中公新書、2023年、No. 2746、Kindle版、80-81頁)」。

 

⑨追記2:教団によって「継続」されている特異な意識―「共産主義者の策動」論

 教団は、2022年夏以降の状況を「マスコミによる偏向報道」「共産主義者たちによる教団潰しの意図による」「元信者の個人的な恨みによる非難」などといい続けています。こうした意識の根は、『原理講論』です。すなわち、神に敵対するサタンが唯物史観すなわち無神論共産主義を生み出し、そうしたサタン軍団に操られた共産主義者を中心とした人々によって、同教団にたいして弾圧が起きている、との理解です。たとえば、2023年初頭に、教団会長が信者向けに発した言葉は、17世紀初頭の日本でのキリスト教にたいする迫害を引き合いに出して、現在の状況はまさに統一教会への迫害であるとして、「われわれがブレなければ、サタンは必ず敗退する」でした。

 

 同様の思い込みは、信者がSNSで発信した以下の引用からもわかります。「私は唯物論者は自然に共産主義を持つようになると考えています」「共産主義には根底に唯物論がある。だから人を人扱いしないでしょ?・・・・・・だから、私は唯物論者は共産主義だと言っています」「一宗教の否定は全ての宗教の否定へ直結する。宗教を潰した社会が共産国家である。宗教を潰した日本社会にしたいですか?」信者が街頭演説でこうした支離滅裂な主張をしている様子が下のリンクです。

https://twitter.com/i/status/1732503393434841098

 

 自分たち教団が(2009年のコンプライアンス宣言以降も)引き起こしてきた加害事実に向き合おうともせず、被害者への誠意ある補償交渉も不十分で、あげくのはてには自分たちは宗教弾圧の被害者であって、その背景にはサタンと共産主義とそれに踊らされているマスコミ・世論があるなどと言い募っているのです。

 

⑩追記3:教団によって「継続」されている特異な意識―「正体隠しの伝道は許される」

 2012年3月の札幌地裁判決など幾多の裁判で、「正体隠しの伝道」が違法とされました。さらに、「不当寄付勧誘防止法」(2023年1月5日施行)でも、「正体(法人名等)を隠した勧誘をしない」と決められたにもかかわらず、現役信者は正体隠しの伝道を良しとする発信を続けています。SNSでの個人の意見であるとはいえ、こうした意見が複数だされてくるということは、教団組織が、上記のような判決と法の施行を受けて、その精神を体現した研修や意識の教化育成を十分には行っていない証左だと思います。

 

 たとえば、「『正体隠し』は違法でも何でもなく、社会で普通のことです。共産党系民青も大学ではコーラス・グループ作ってましたよ。高額献金もそうですが社会の普通のことを如何にも悪者呼ばわりする巧妙な印象操作です」。

 

 また、「正体隠し伝道っていうのを禁止するような法律は作れない。人間は、常に正体がわからないカタチで出会っている。結婚だって、・・・・・・」などのポストもあります。

 

 これらはエックス(X)での自称・現役信者によるポストの内容ですので、本当に現役信者の意見なのかどうかは判然としません。しかし、教団がはたして、これまでの司法での判決を受けて、「正体隠しの伝道・勧誘は行ってはならない。なぜならば、・・・・・・」という信者向けの研修で遵法「意識」の教化育成を効果的に行ってきたのでしょうか?

 たしかに教団は、現時点でその公式Webサイトで、伝道の際は教団名を明らかにするように、と記載しています。しかし、それで信者の意識改革はできるのでしょうか? 上記のようなポストすなわち「『正体隠し』は違法でも何でもなく、社会で普通のことです」などという信者が今もいるということは、信者の中には「訴訟や法律がやたらとうるさいから、教団名を明かせということだろう」程度にしか、受け止めていない人もいると思われます。

 信者の意識を変えうる教化育成としては、たとえば、次のように説明すべきです。「過去の『正体隠し』の伝道は、道義的にも誤りであり、神も悪いことだと思し召されてきた。この点は大いに反省し、今後、信者は教団名を隠した伝道を絶対に行ってはならない」などと記載すべきです。筆者が知る限りでは、こうした真の意識改革は、現時点で行われていないと思います。

 

⑪追記4:教団擁護派によって「継続」されている非常識な意識―「司法よ、おまえもか」

 ついには、司法の判断に根拠もなしに「文句」をいう人がいます。たとえば、以下は教団擁護派のジャーナルスト・福田ますみ氏の論説です。立憲民主党の石垣のりこ議員にたいして、同議員のユーチューブチャンネルに投稿されている小川さゆり氏(仮称)の発言を削除するよう、東京地裁に教団が仮処分命令を申し立てて却下されたことについて、「裁判官は合理的常識的な判断を放棄し、詭弁、屁理屈に終始している。彼ら(裁判官を意味する―星本、補足)による捏造まで疑われ、およそありえない不当決定(不当判決)である」(月刊『Hanada』2023年、6月号、295頁・上段と下段)。もはや開いた口がふさがらないレベルの書きなぐりです。なお、本節のタイトル「司法よ、おまえもか」は同誌の305頁・上段における、福田ますみ氏の主張です。

 

 以上、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の組織および信者個人において、宗教団体として一番大切な「理念・情緒・意識」は本質的に改革されないままで、今日に至っていると思います。また、これまでの加害事実に教団は誠実に向き合っておらず、数多くの被害者が、十分な謝罪も補償を受けていません。つまり、問題は継続したままです。その意味からも、「継続性」があることは明白で、コンプライアンス宣言以後は訴訟が減っているなどとする教団の弁明は、まったく的外れな言い逃れに過ぎないと断じます。