政教分離と政教一致―雑録

 デンマーク王国は、憲法第四条で、福音ルーテル教会を国教と定めている。ルター派キリスト教だ。これは、政教一致または政教不分離の形態の一つだろう。国教の維持のために、信者には教会税というのが課されている。しかし、「自己の信条・・・の故に・・・権利の完全な享受の機会を奪われない」(憲法第七〇条)と規定しているので、信教の自由や他の宗教の存在を禁止したり否定したりしているわけではない。イギリスでは、国王は同時にイギリス国教会の首長でもある。

 イスラム圏の国を除いて、現在、国教を持っている国は少ない。むしろ、憲法で国教を禁止し、政教分離を規定している国の方が多い。しかし、特定の宗教団体が政党や代議士を持っていて、政治の世界でそれぞれの理念を政策に反映させようとしている例は多い。また、人類の歴史では、国教あり、または、政教不分離の事例がいくつもある。いわば、「国または宗教組織が、政治と宗教の両方を持っていた状態」は、実は歴史では非常に多いのだ。

 そこで以下では、まとまりのない事例集になってしまうが、現時点で知りうる限り、国教や政教不分離の歴史の事例を少しばかり挙げたい。

 7世紀にイスラム勢力がエジプトを征服した後、イスラム教がエジプトの事実上の国教となった。その後、それまでエジプトで主流だったコプト教キリスト教の一派)信者にのみ、人頭税(じんとうぜい、または、にんとうぜい)が課された。この人頭税のことをジズヤというそうだ。そうすると、時代を経て少しずつコプト教徒が減り、数百年かけてイスラム教徒がほとんどになったという。コプト教徒として残った人たちは、課税に耐えられる裕福な家庭の人たちだったようだ。

https://cambridge.org/core/services/aop-cambridge-core/content/view/3407860149F95ACC44E489D1D7F526FB/S0022050718000190a.pdf/on_the_road_to_heaven_taxation_conversions_and_the_copticmuslim_socioeconomic_gap_in_medieval_egypt.pdf

 

 人頭税は、たとえば各家庭の成人男子の人数に応じて課される税金、といったものだ。現代の先進国ではほとんど耳にしない。以下、個人の理解である。人頭税とは、成人男子は働いて収入があるだろう、ということを根拠にしてざっくりと課税するものだったのではないか。古代から近世にかけて、金銭による給与所得が必ずしも収入の主流ではない時代では、各人の所得を為政者が正確には知りえなかったから採られていた税制、ということなのかもしれない(以上、個人の見解)。

 ジズヤは、①イスラム教を国教としつつも他の宗教を許容する統治手法をベースとし、反乱や暴動を避けつつ年月をかけてイスラム教徒を増やしていく、という機能と、②非イスラム教徒からの税収を揚げる、という機能がある。後者については、たとえば、支配者階級であるイスラム教徒でのみ軍隊が構成される場合には、非イスラム教徒は安全と平和という目に見えないサービスをイスラム教徒から受けるのだから、その代償として、特別の税金を支払うべきだ、という理屈である。

 上記の①と②はときには相反する。イスラム勢力が支配している地域で、イスラム教への改宗がいつも奨励されていたかというと、必ずしもそうではなく、税収増のために、イスラム教に改宗しないようにと人々は働きかけられた、という事例も聞く。

 たとえば、塩野七生氏の『ローマ亡き後の地中海世界―海賊、そして海軍―1』(2016年刊、新潮文庫)では、一時期イスラム勢力に征服されていたシチリアの事例を紹介している。「シチリアイスラム教徒ばかりになってしまっては、非イスラムに課されるこの税も徴収できなくなる・・・・・こうしてシチリアのアラブ人は、実に現実的な支配の方法に到達したのである。まず、被征服者であるシチリア人に、イスラム教への改宗を奨励しないことにした。いや、改宗しないよう奨励したのである」(234頁)。

 国教がある場合の「宗教税制」(私・星本の造語)は、人々の行動に大きく影響する。塩野七生さんによると、古代ローマでも「キリスト教を公認した・・・帝の二人によって、キリスト教会に属する聖職者は免税と決まった。地方自治体の有力者層が、雪崩(なだれ)を打ってキリスト教化した真因は、これにあったのだ」(塩野七生ローマ人の物語XIV』、kindle版、「キリストの勝利[上]」(2005年、2024-2025頁)。

 国教がありつつも、他宗教に寛容な政策の一つとして、ジズヤは非常に興味深い。ちなみに、キリスト教が国教となった後の西欧諸国では、他宗教には原則として不寛容であった。

 近代以降は、宗教を政治と切り離す傾向が強くなっていく。たとえば、小笠原弘幸(2020)『オスマン帝国』(中公新書)によると、オスマントルコは非イスラム教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を1855年に廃止し、兵役免除税という形に置き換えている(241頁)。国教を持ちつつも、宗教の平等へという大きな転換といえるだろう。

 国教がありつつ、他の思想・信条に不寛容な体制では、ときとして残酷な迫害が起きる。キリスト教がすっかり浸透していた5世紀のアレキサンドリアで、ヒュパティアという名のギリシャ哲学の泰斗(女性)が、キリスト教徒に惨殺されたのはその一例だ。彼女が  “キリスト教に批判的であり、しかも、淫乱で怪しげな儀式を行っている” との噂が広がり、狂信的なキリスト教徒たちは彼女を殺そうと機会をうかがっていた。そしてついにある日、犯人たちは彼女を捕えて殺害した。牡蠣の貝殻で肉片を削り取られたと伝わっている(生きたままなのか、殺害後なのかは不明)。一説では、犯人たちは血のしたたる彼女の肉片を持って行進したという。他に不寛容な政教一致は、まさに地獄絵図だ。

(ヒュパティアについては、本村 凌二『地中海世界ローマ帝国』2007年、講談社、332-333頁を参照。映画『アレキサンドリア』は、ヒュパティアがテーマである。)