閻魔帳は存在するのか?

 いろんな宗教で、霊界には各人の言行がすべて記録されている帳簿がある、と説いている。たとえば『コーラン』(クルアーン)には、次のように記載されている。

 「己が帳簿(前世、現世での所業が細大洩らさず記入されている帳簿)のところへ呼び寄せられ・・・」とある(井筒俊彦訳、岩波文庫、45「腰抜けども」より)。

 仏教の閻魔帳、イスラム教の帳簿に相当するのは、天照皇大神宮教では天の記録写真帳。閻魔帳の存在を信じる人は、他者に発覚しなさそうであっても、オリンピック関連で賄賂の授受などしないはず。人が心に善の殿堂を建立し、社会から悪業が減る―それが宗教の役割では。 

 仮に閻魔帳があるとしても、宗教や人によって、その説明に温度差がある。たとえば、心で思ったことは記録されるのだろうか? たとえば、

 「お前たちはみな・・・主のみもとに帰って行き、・・・してきたことを逐一・・・話して聞かされる。何しろ、胸の奥底に秘めた思いまで全部御存知」(井筒俊彦訳『コーラン』、「群れなす人々」)より。または、

 「善・悪のカルマを、0.0001秒も見逃すことなく・・・私たちの生きる様が記録されている」(木村藤子『魂を磨くと幸せになれる』、学研プラス、kindle版、37頁)。

 こうした説明は、心で思ったことも霊界の帳簿に記録されているという主旨と理解していいのだろう。

 なお、「心で思う」といっても、言葉にして思うだけではないだろう。人が心で思うときは、言葉ではないが映像で思うこともあるし、一瞬の感情の動き、といったものもある。それらがすべて記録されている、と考えると、日々の生き方がかなり変わってきそうだ。ちなみに、

 「人のものが欲しいと思っても天の写真帳には泥棒についている」(天照皇大神宮教『神教十二講』、49頁)。

 この「欲しい」とは盗みたい奪りたいという具体的な思いのことだろうか? それとも、計画や言葉ではなく単に物欲が発しただけも含まれるのだろうか?

 いずれにしても、閻魔帳的なものがあると信じるかどうかは、人の言動や心の持ち方にまで影響する、大きなテーマだと思う。昔から、閻魔帳をもとにして、悪いことをしないようにと、家庭教育がなされてきた。

 最近は、信仰のある親が子に、「そんな悪いことをしたら罰が当たるよ」ということは、宗教による脅しであり、不適切だとの主張も目にする。それらはケースバイケースなのだろう。万引きをした子にこれを言うことは、不適切なのだろうか? 「万引きはお店に迷惑をかけて犯罪だから、やってはだめ」に加えて、「閻魔帳に記録されて、いつかあなたが泥棒にあうよ」というのは適切だろうか、不適切だろうか?