福田ますみ氏の『Hanada』論説(2023年3・6月号)への書評・疑問―(3)セクハラ問題―

 小川さゆり氏が著書などで告発した、修練会中での男性班長からのセクハラ疑惑については、重大な案件であり、メールの有無以外に証拠・証言が確認できない以上、踏み込んだ判断が難しいと感じる。我が存念は別として、不用意なことをここで書くことはできないと思っている。ただ、少なくとも確認できるレベルとしては、“修練会中に男性班長だった人は、小川さゆり氏にたいして悪い気はせず、内容によっては好意の表現ともとれるメールを小川氏に送り、当該班長は厳重注意の処分を受けた” ということであろう。
 ところが、福田論説ではさらに踏み込んで、この件では小川氏に非があったかのごとく匂わせる論述をしているという点で、大いに疑問を感じるのである。以下、その点を述べたい。
 会社や学校でこうした問題が生じた場合には、直接の当事者だけではなく、そのとき周りにいた人にたいしても聞き取り調査を行って究明する。だが、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)で、周囲にいた人に対する調査が行われたかどうかは、今のところ聞こえてこない。
 男性班長と何度か会話をしたことについて、小川さゆり氏は著書で、「そこには恋愛感情はまったくありませんでした」と書いている(小川さゆり『小川さゆり、宗教2世』Kindle版、71頁)。小川氏は修練会にただただ前向きに参加していたので、何度か男性班長と会話をしたのだろう。
 ところが、閉会式の日に、その男性班長から別の場所に連れていかれて、一緒に写真を撮ったり、その際に腰に手を回されたりした、という(72-73頁)。そして、「信者同士の交流に使っていたFacebookのアプリを開くと、先ほど写真を一緒に撮られた班長から、友達申請とメッセージが届いていました」と小川氏は述べている(73頁、下線は星本による―以下同様)。
 ところが、この疑惑について、福田論説では、次のように説明されている。「小川さんの属した女性班の班長は、小川さんが男性班長好意を持っていることに気づき、・・・・・・一方、小川さんは二十一日修練会から帰宅後、フェイスブックでこの男性班長友達申請を行ったところ、男性班長は小川さんにメールを送った。小川さんがこのメールの内容を地元の教区の担当者に見せたため、担当者は千葉中央修練所の所長に連絡した。メール自体は・・・・・・内容によっては好意の表現ともとれる内容だった。・・・・・・所長は男性班長を読んで厳重注意をし、メールの削除を命じた。なお、・・・・・・関係者は誰一人、小川さんから、男性班長に身体を触られるなどのセクハラ被害を受けたとは聞いていない。問題になったのはメールの件だけである。・・・・・・セクハラの加害者からの友達申請を承認するなど、現実にありうるのか疑問だ」(301頁・上段~下段)。
 最後の、「セクハラの加害者からの友達申請を承認するなど、現実にありうるのか疑問だ」は、福田氏の個人的意見に過ぎないし、読者に「友達申請をしたのはさゆり氏から」と印象づけようとしているように読めて、恣意的な印象を受ける。SNSは後からブロックなどいくらでもできるのだから、友達申請をみて、小川氏が不快かつ怪訝に思いつつもまずは承認したとしても何の不思議もない。
 次に、女性班長が、「小川さんが男性班長に好意を持っていることに気づき」とは、何を根拠に書かれているのだろう。そう「気づいた」女性班長の主観に過ぎないではないか。
 ところが、福田氏は「実は彼女(小川氏)のほうから男性班長しきりに話しかけたため彼も悪い気はせず、メールで少しやりとりをしただけであることが判明した」(3月号、56頁・上段)と、小川氏に問題があったかのように印象づける説明をしている。
 この出だし部分を星本が正常な表現に直せば、「修練会に前向きだった小川氏は、もう一人の女の子と一緒に、この男性班長何度か話をすることがあった」(小川さゆり氏の著書・70頁を参考に、星本作成)である。「しきりに」という文学的表現は、先ほどの「好意を持っていることに気づき」と同様、福田氏ないし当該女性班長の主観が入っているとともに、読者に特定のイメージを印象づけてしまうという恣意性を感じる。
 上記の中での男性班長が「悪い気はせず」と福田氏が表現した主旨は、男女としての好意を男性班長が持ったという意味だろうか? それとも、単に班長としてのやりがいを感じたという意味だろうか? 男性班長から小川氏へのメールについて、福田氏が「メール自体は・・・・・・内容によっては好意の表現ともとれる内容だった」と書いていることから、前者の理解でいいのだろう。
 ただ、冒頭に書いたように、Facebookに送られてきた写真、メール内容が確認できないので、これ以上の判断はむつかしい。小川氏が閉会式の日に男性班長に呼び出されたときに、その場にいて目撃していた参加者がいないのか、後日でも構わないので、それを教団は確認したうえで聞き取り調査をしたのかと、最後に疑問が残る。そして、メールも残っていないようなので、この一連の出来事がセクハラに該当するかどうかは判断不能である。なぜメールを削除するように指示されたのかも、理解できない。むしろ、メールを記録したり転送させたりして、班長ないし教団が保管して、今後の戒めとする発想はなかったのだろうか。
 いずれにしても、福田氏の文章の “(小川氏が男性班長に)好意を持って、しきりに話しかけた” という部分は、事実に基づいているとは到底思えず、読者への恣意的な印象操作に思える。
 結局、このセクハラ問題については、東京地裁は次のように判断を下している。「仮にそのようなことがあれば、さゆりは直ちに他人に相談したはずであるのに、母親も含め当時誰もそのようなことを聞いていないなどと(教団側は主張―星本、補足)して、さゆりの・・・・・・記載は信用できない旨主張し、これに沿うさゆりの母の陳述書を提出する。しかし、他人から意に反する身体接触を受けた者は、必ずしもそれを他人に相談するわけではないというべきであり、(中略)さゆりの陳述書の記載が信用できないとはいえない」(6月号、303頁・下段~304頁・上段)。
 福田氏はこの裁判所の判断について「詭弁である」(304頁・上段)と批判している。当時、母親にさゆり氏が相談したかどうかについて、さゆり氏の説明と母親などの説明が食い違っていることなどから、「詭弁」と福田氏は受け止めたようだ。しかし、「言ったはずだ、いや、聞いていない」といったことを論点にしたとしても、やはり小川氏の説明が真実に反するなどという根拠にはならないだろう。つまり、“そんなことをさゆり氏から聞いという記憶はない” と母親が言ったとしても、さゆり氏の話が虚偽だという根拠にはならないのである。